紫の皇帝

 紫帝は黙って私を見つめていた。私がもう一度竿を振ると、防水の絹の釣り糸がさらに二メートルほど伸びて、川のよどみの上をしゅるしゅると飛んでいき、三つの毛鉤がアザミの冠毛よろしくふわりと水面に落ちた。紫帝はそれを見てせせら笑った。
「わからんやつだな。ブルターニュには飾り尾のついた毛鉤に食いつくようなマスは一匹もいないんだよ」
「アメリカにはいるさ」私は言い返した。
「ふん! アメリカにならな」
「イギリスのマスだって飾り尾のついた毛鉤にかかるぞ」私はぴしゃりとやり返した。
「イギリス人がイギリスで何をしようが、俺の知ったことじゃないね」
「そりゃ、あんたは自分と、うねうねかわいい毛虫のこと以外はどうだっていいんだろうさ」私はいよいよ気分を害してそう言い返してやった。
 紫帝はフンと鼻を鳴らした。その大きく、つるりとして陽に灼けた顔には、私の神経を逆なでせずにはおかない、いつもの意固地な表情が浮かんでいた。その帽子のかぶり方も私の苛立ちに拍車をかけていたかもしれない。ぺらぺらのつばが両耳にかぶさり、正面の留め金から垂れた二本の短いリボンが、ちょっと風が吹くたびにひらひらとなびくのだ。その狡猾な目とぴんと尖った鼻は、太った赤ら顔にはいかにもそぐわない。
 そうやって見つめていた私と目が合うと、彼は忍び笑いを漏らした。
「昆虫のことなら、俺はこのモエラン郡で、いやそれを言うならフィニステール県で一番詳しいんだぞ」
「赤大将だって負けていないさ」私は言い返した。
「嘘だ」紫帝はむっとして反論した。
「それに集めた蝶の数だって、向こうはあんたの倍はあるぞ」私はそう畳みかけ、小川沿いに移動して、水面を挟んで相手の真正面に立った。
「へえ」紫帝はせせら笑った。「じゃあ教えてやろうか、ムッシュー・ダレル。あいつのそのたくさんのコレクションの中にはな、〈紫の帝王〉の異名を持つあの華麗な蝶、アパトゥラ・イリス、通称コムラサキの標本は一つも、ただの一つもないんだぞ」
「それはブルターニュの人間なら誰だって知っているさ」言いながら、私はきらめく水面に釣り糸を投げ込んだ。「でも、あんたがたまたまモエラン郡でただ一人、コムラサキを捕まえたことのある人間だからって、茶マスにも詳しいとは限らんだろう。どうしてなんだ、ブルターニュの茶マスが飾り尾のついた毛鉤には目もくれないっていうのは?」
「そういうものなんだよ」
「でもどうしてだ? この川のまわりにはトビケラがたくさんいるじゃないか」
 紫帝はほくそ笑んだ。「それがどうした。まあ、自分で確かめればいい。飛びつくマスなんかいやしないから」
 腕が痛くなってきていたが、私は竹の釣り竿をぐっと握り直し、少し身体の向きを変えて流れに足を踏み入れ、よどみの先に向かって釣り糸をゆらゆらとしならせ始めた。大きな緑色のトンボが一匹、夏の微風に乗ってふらりと飛んできて、エメラルドのような輝きを放ちながらよどみの上でしばし静止した。
「ほら、今だ! 虫取り網はどこだ!」私は川越しに彼に声をかけた。
「何のために? あのトンボか? あんなの十匹ばかり持っているさ――学名アナックス・ジュニウス。発見者ドルーリー。特徴は、後翅の内側の角が、雄の場合は丸みを帯びていること、胸部の斑は――」
 私は苛々しながら相手を遮った。「もういいよ。まったく、ちょっと虫を指さしただけで蘊蓄を聞かされなくちゃならんのか。いいから、簡単な、平凡なフランス語で教えてくれないか。あの小さな蠅は何ていうんだ――私の横のミオグサの上を飛んでいるやつ。ほら、今水面にとまった」
「なあんだ」紫帝は人を小馬鹿にしたように笑った。「それはリノビア・アンニルスだよ」
「は?」
 彼が言葉を継ぐよりも早く、川のよどみでじゃぽんっと音がしたかと思うと、その蠅の姿が消えた。
「ヒヒヒ! 言っただろう。魚にはちゃんとわかるんだよ。今のが茶マスだ。あいつがあんたに釣られませんように」
 そう言って、紫帝は虫取り網と、道具箱と、クロロフォルムの瓶と、青酸カリの小瓶を片付けた。それから立ち上がって道具類を肩にかけると、虫殺しの毒の入った瓶を銀ボタンの並ぶ別珍の上着のポケットに押し込み、パイプに火を点けた。またこのパイプだ。これで一服するところを見ていると、本当にうんざりしてくる。紫帝はブルターニュの農夫のご多分に漏れず、この地方特有のちんまりとしたパイプを使っているのだが、これが探すのに十分、煙草を詰めるのにもう十分、火を点けるのにさらに十分かかるような代物で、そのくせものの十秒で吸い終わってしまうのだ。
 生粋のブルトン人らしく、まわりに人などいないかのような様子でこの厳粛な儀式を終え、煙を三回吐き出した彼は、もの思わしげに尖った鼻を掻き、ふらふらとおぼつかない足取りで歩み去っていった。「それじゃ。ヤンキーどもに災いあれ!」と捨て台詞を残して。
 私はその姿が視界から消えていくのを見守りながら、この男のせいでこの世の地獄を見ている一人の哀れな娘のことを思って悲しくなった――彼の姪、リース・トレベクである。本人は決して認めることはないが、その柔らかく、ぽっちゃりとした腕についた青黒い痣が意味するところは誰もが承知していたし、宿屋の〈グロワ〉亭に酔っ払った紫帝が入ってきた時に彼女の目に浮かぶ怯えた表情を見ると胸が痛んだ。
 彼はリースにろくにものを食べさせていないという噂だった。とはいえ、リース自身はそれを否定してはいる。マリ・ジョセフとジョセフィーヌ・ルロカルは、鳥謝祭※2の翌日、前日に鳥もちを使って捕まえていた三羽のアトリを放したからと、紫帝が彼女を殴るところを目撃している。リースにそれが本当なのかと尋ねたら、その週はもうひと言も口をきいてもらえなかった。私にはどうすることもできなかった。もしも紫帝が欲の皮の突っ張った男でなかったなら、私はそもそもリースに会うことすらできないはずだが、彼は私が支払う週三十フランには逆らえないのだ。
 そういうわけで、リースは一日中私の絵のモデルになってくれて、桃色の薔薇の茂みに遊ぶ小鳥のように幸せそうにしている。にもかかわらず、紫帝は私のことを嫌っていて、リースを辛いお針子に戻してやると言ってしょっちゅう脅してくる。おまけに執念深くて、ここブルターニュ地方の名物であり、またたいていのブルトン人にとっては理性の大敵であるリンゴ酒を引っかけた時などには、〈グロワ〉亭の色褪せた楡材のカウンターを叩いて、私と、イブ・デレクと、赤大将の悪口をがなり立てるのだった。
 この三人こそは、彼がこの世で誰よりも憎んでいる人間なのだ。私の場合は、私が外国人であり、そしてあの男のことも、あの男の自慢の蝶のコレクションのことも何とも思っていないから。そして赤大将は、彼が自分の向こうを張るアマチュアの昆虫博士だから。
 あの男が彼を嫌う理由はそれだけではなかった。
 赤大将というのは、大きさの合わないガラスの義眼をはめ、ブランディに目がない、小柄で貧相な男で、そのあだ名は彼のコレクションの目玉である一羽の蝶に由来している。学名ヴァネッサ・アタランタ、通称アカタテハ、あるいは〈赤の大将〉の名で知られるこの蝶は、一度フランスとブルターニュ地方の昆虫学者の間で騒ぎの種になったことがあった。というのも、赤大将はそのへんにいる虫を捕まえて薬品で鮮やかな黄色に染め、それをお人好しの某収集家に、南アフリカ産の極めて珍しい標本だと言って売りつけたのである。
 しかしながら、この詐欺行為によって得られた五十フランは、当の激昂した愛好家が一ヶ月後に起こした損害賠償訴訟によってそっくり消えてしまった。そして、カンペルレの刑務所に一ヶ月入れられた後、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、酒に飢え、燃え盛る復讐心を胸にこの小さなサン=ジルダ村に戻ってきた。私たちが彼に赤大将のあだ名を進呈したのは言うまでもないことで、本人は内心腸の煮えくりかえるような思いでその呼び名に甘んじているのだった。
 一方、紫帝のその仰々しい呼び名には正当な理由があった。学名アパトゥラ・イリス、通称コムラサキ、またの名を〈紫の帝王〉として知られるあの華麗な蝶の唯一の標本――フィニステール県およびモルビアン県で採取された唯一の標本は、紫帝こと本名ジョセフ=マリ・グロアネクによって捕獲され、生きたまま持ち帰られたものであることは紛れもない事実なのである。
 この珍しい蝶が採取されたことを知った赤大将は、嫉妬で気も狂わんばかりだった。それから一週間というもの、彼は一日と欠かさず紫帝が姪のリースと住んでいる〈グロワ〉亭に赴いて、イカサマを暴いてやろうと、この捕獲されたばかりの蝶を持参の顕微鏡で穴の開くほどに調べた。しかし標本は本物で、どれだけ顕微鏡を覗き込もうと無駄だった。
「薬品は使っていないよ、大将」そう言って紫帝はにやにやと笑った。赤大将は怒りのあまり歯の根が合わないほどだった。
 ブルターニュ地方とフランスの自然科学会にとって、モレアン郡でアパトゥラ・イリスが捕獲されたという事実は重要な意味を持っていた。カンペルレの博物館は標本を買い取りたいと申し出たが、守銭奴ではあったものの、金以上に蝶に目のない紫帝は、館長をさんざん冷やかした挙げ句にその申し出を断った。ブルターニュ地方とフランスの各地から、彼のもとに質問とお祝いの手紙が殺到した。フランス科学協会から賞を授与され、パリ昆虫学会からは名誉会員として迎えられた。頑固で知られるブルターニュの農夫だが、それに輪をかけて頑固者の彼は、こうした栄誉の数々に平穏な日常を乱されることはなかった。
 しかし、この小さなサン=ジルダ村の村長に選ばれた時、そしてこうした場合のこの地方の慣習通り、それまでの藁葺きの家を出て、小さな〈グロワ〉亭の一室を村長室代わりにして住み始めた時、彼はそれまでの考えをがらりと変えてしまった。人口百五十人近くの村の村長! 帝国の主! そうして彼は鼻持ちならない男になり、毎晩毎晩飲んだくれては、生粋のならず者らしく姪のリース・トレベクに手を上げ、アパトゥラ・イリスを捕まえた話を際限なく繰り返して、赤大将を悔しさのあまり発狂する寸前にまで追い込んだ。もちろん、その蝶を捕まえた場所は秘密にしていた。赤大将は彼の後を虚しく尾け回した。
「ヒヒヒ!」リンゴ酒のコップを前にして顎を撫でさすりながら、紫帝は嫌みったらしく言うのだった。「昨日の朝、あんたがサン=ジルダの雑木林のあたりをうろうろしているのを見かけたぞ。俺の後を尾け回して、自分もアパトゥラ・イリスを見つけようってかい? 無駄だよ、大将。無駄無駄」
 赤大将は悔しさと嫉妬のあまり顔が土気色になっていたが、翌日には本当に寝込んでしまった。それというのも、紫帝がアパトゥラ・イリスの成体ではなく、生きた繭を持ち帰ったからで、これはもし羽化させることに成功すれば、この珍しい蝶の完璧な標本となる。これがとどめの一撃となった。赤大将は住まいである石造りの小屋に閉じこもり、毎日朝食にパンと、ボラかエビの料理を届けにいくジョセフィーヌ・ルロカルを除いては、もう何週間も村人の前に姿を見せていなかった。
 赤大将が村の日常から姿を消したことで、紫帝は初めのうちは彼を小馬鹿にしていたが、やがてついには猜疑心にとらわれるようになった。あの男はどんな悪巧みをしているのだろうか。また薬品を使った実験をしているのか、あるいはこの自分の評判を落とそうと、何かもっと腹黒い計画を立てているのではないか。一日一度、バナレクから片道二十五キロの道のりを歩いて郵便物を運んでくる配達人のルーが、イギリスの消印のある怪しげな手紙を何通か赤大将に届けており、そしてその翌日、自宅の窓辺でにやにやしながら空を見上げ、揉み手をしている彼の姿が目撃されていた。
 それから一日か二日後の夜、ルーは〈グロワ〉亭に小包を二つ置いたままにして、通り向かいの私の家に立ち寄ってリンゴ酒を一杯引っかけていった。宿の喫茶室をうろつき回って他人のことに片っ端から首を突っ込んでいた紫帝はその小包を見つけ、消印と送り手の住所を確かめた。一つは四角くて重く、手に持った感じでは本のようだった。もう一方の包みも形は四角かったが、こちらはとても軽く、どうやらボール箱らしかった。どちらも赤大将宛てで、イギリスの消印があった。
 戻ってきた配達人のルーから紫帝は情報を聞き出そうとしたが、かわいそうに、小柄な配達人は小包の中身については何も知らず、彼が荷物を持って赤大将の小屋の角の向こうに姿を消すと、紫帝はリンゴ酒をしこたま飲んでわざと飲んだくれ、やがてリースがやってきて、泣きながら叔父を支えて部屋に連れ帰った。部屋に戻った彼は手に負えないほどひどく暴れ、リースが私を呼びに来たので、私はつべこべ言わせずに力尽くで片をつけた。紫帝はこの一件のことも忘れておらず、私に仕返しする機会がやってくるのを待っているのだった。
 それが二週間前のことで、それ以来彼と口をきくのは今日が初めてだった。
 リースはこの一週間ずっと私の絵のモデルを務めてくれていて、今日は土曜日だし、私も絵筆を手に取るのが億劫だったので、二人で今日はちょっと息抜きをしようということに決めて、彼女は隣のサン=ジュリアン村にいる小柄な黒目の友達、イヴェットのところに遊びにいき、私はアメリカから持ってきた毛鉤のセットがここブルターニュのマスの口に合うものかどうかを試してみることにしたのだった。
 三時間、ひたすら根気強く竿を振っていたが、マスは一匹も釣れず、私は虫の居所が悪かった。私はサン=ジルダの小川にはマスはいないのだと信じ始めていて、紫帝がひどく長たらしい名前で呼んだあの小さな蠅が茶マスに食われるところを見なかったら、たぶん諦めていただろう。あの光景を見て私は考えた。紫帝の言っていることはおそらく正しいのだろう。あの男がこのブルターニュ地方で這ったり蠢いたりしているありとあらゆる生き物に詳しいことは確かなのだ。
 そこで、私はアメリカの毛鉤セットの中から、今しがたマスが飛びついた蠅に似ているものを選び、今まで使っていた三つの毛鉤と付け替えた。それは珍妙な毛鉤だった。釣具屋で愛好者の目を引きつけはするものの、いざ使ってみるとたいていはまるで役に立たない、よくある何とも言いようのない実験的な毛鉤である。しかも飾り尾がついていたが、もちろんこれはナイフですぐに切り捨てた。
 やがて準備万端整うと、私は急流に足を踏み入れ、さっき茶マスが浮かんだところめがけて矢のように真っ直ぐ糸を飛ばした。羽毛のようにふうわりと、毛鉤は川面に落ちた。と、びっくりするような水音が上がって銀色が一閃したかと思うと、震える竿の先端から金切り声を上げて回転するリールまで、糸がぴんと張り詰めた。すぐさま私はリールを押さえ、獲物がきらめく身体をのたうたせて水面をバシャバシャと蹴立てているうちに素早く岸に戻った。相手は大物のようで、流れに沿って長い距離を走ることになるかもしれない。重さ二キロ半の竿が、獲物の引きに震えながら、流れるような弧を描いて動いていく。
「ああ、これは鉤竿がいるぞ!」私は大声で叫んだ。今や私は固く信じて疑わなかった。相手は茶マスなどではない。サケだ。
 と、私がそうして全体重をかけて暴れる魚と格闘していると、しなやかでほっそりとした娘が一人、私の名前を呼びながら急いで向こう岸に駆けてきた。
「やあ、リース!」ちらと目を上げ、私は言った。「イヴェットとサン=ジュリアンにいるんじゃなかったのかい」
「イヴェットはバナレクに出かけたの。それで私が帰ってきたら、〈グロワ〉亭で大喧嘩があって、怖くて怖くてあなたを呼びにきたの」
 その瞬間、獲物が勢いよく突進して、リールに巻いてあった糸が一杯に伸びてしまったので、やむを得ず私も同じ方向に駆け出した。若鹿さながらに溌剌として優雅なリースは、ポンタヴァンの木靴を履いているにもかかわらず、対岸を走って追いかけてきた。やがて魚は深いよどみに入り、糸を一、二度大きく震わせて、それから再び暴れ始めた。
「〈グロワ〉亭で喧嘩だって?」私は川を挟んで声をかけた。「喧嘩ってどういう?」
「その、喧嘩ってわけでもないんだけれど」リースは震える声で言った。「とにかく、赤大将さんがやっと家から出てきて、叔父と二人で一緒にお酒を飲みながら蝶々のことで言い争いをしているの。叔父はこれまで見たことがないくらい怒っていて、赤大将さんの方はせせら笑ったり、にやにやしたりして。ああ、叔父のあの顔! まるで見ているこっちまで心がすさんでしまいそうな顔なの」
「でもリース」私はかろうじて笑みを堪えながら答えた。「きみの叔父さんと赤大将が酔っ払って言い合いをするのはいつものことじゃないか」
「ええ。でも――なんて言ったらいいのかしら。とにかく今度のはちがうんです、ムッシュー・ダレル。赤大将さんは三週間前に家に閉じこもるようになってから老け込んで怒りっぽくなっていて、それから――ああ! 私、叔父のあんな目つきは見たことがなくて。まるであんまり怒ったせいで頭がおかしくなってしまったみたいで。あの目つき……とても言葉にできないような目なの。そしたらそこにテレクが入ってきて……」
「なるほど」私は真顔になって言った。「そいつは困ったな。赤大将はあのドラ息子になんて言ったんだい?」
 リースはシダの葉に囲まれた岩に腰を下ろし、その青い瞳に意固地な表情を浮かべて私を見つめた。
 イブ・テレクというのは、浮浪者で、密猟者で、赤大将ことルイ=ジャン・テレクの息子であり、父親から勘当され、紫帝からは村長権限で村を追放されたろくでなしである。この荒くれ者の青年が村に戻ってきたことはこれまでにも二度あった。一度は紫帝の寝室を物色するために(これは失敗に終わったが)。そして二度目は、自分の父親の家に盗みに入るために。こちらは成功したが、しかし彼は村の周辺の森や荒れ野をうろついている姿を何度も目撃されながらも、これまで一度も逮捕されたことはなかった。彼は大勢の前で紫帝を脅し、カンペルレの憲兵たち――藪に覆われた沼地や黄色いハリエニシダの咲く荒れ野を、何キロにもわたって彼を追い回した憲兵たちがたとえ総がかりで邪魔をしようとも、絶対にリースと結婚してやると宣言したのだ。
 イブ・テレクが紫帝に何をしようが、この先何をするつもりであろうが、私はほとんど気にはしていなかった。しかし、リースと結婚する云々の誓いについては心穏やかではなかった。この三ヶ月というもの、そのことが頭から離れなかった。カンペルレの女子修道院からサン=ジルダ村にやってきたリースが最初につかんだものは、私の心だったのだ。長い間、私はこのしなやかな青い瞳の娘と、紫帝との間に血のつながりがあることを信じまいとしてきた。
 今日の彼女は、ここフィニステール県の民族衣装である、レースの刺繍の入った別珍の上着と青いスカートを身にまとい、頭にはサン=ジルダ村の愛らしいコワフ※3をつけているが、そんな田舎風の格好も、仮装行列の衣装のようでかわいらしい。私にとっては、彼女はルイ十五世の開いた園遊会で、仮装姿でその従兄弟たちと踊っていた多くの貴族の娘たちに負けず劣らず美しく、淑やかに見えた。イブ・テレクが大手を振ってサン=ジルダに戻ってきたとなれば、私もその場にいた方がいいだろう。
「リース、テレクは何て言っているんだい?」穏やかな水面の上で震える糸を見ながら、私は尋ねた。
 リースの頬が濃い薔薇色に染まった。「それは……」そう言って、彼女は心持ち顎をもたげた。「知っているでしょう。あの人がいつも言っていることは」
「きみを連れていくって?」
「ええ」
「たとえ紫帝と赤大将と憲兵に阻まれても?」
「ええ」
「それで、きみは何と答えるんだい、リース?」
「私? 私は何も……」
「じゃあ、私がきみの代わりに答えよう」
 リースは造りのいい、先の尖った木靴を見下ろした。ポンタヴァンで特別にあつらえてもらったその靴は、彼女の小さな足にぴったりと合っていた。この娘の唯一の贅沢品だった。
「きみの代わりに私が返事をしてもいいかい、リース?」
「あなたが、ですか。ムッシュー・ダレル」
「ああ。私に返事をさせてくれないか」
「え、だって……。どうしてあなたが関わり合いに?」
 獲物はとてもおとなしくしていたが、私の手の中の竿は震えていた。
「きみが好きだからだよ」
 彼女の頬に差した薔薇色がさらに濃くなった。リースはそっと息を吐き、巻き毛の頭を両手で抱えた。
「リース。きみが好きだ」
「本気で……言っているんですの?」彼女はたどたどしい声で言った。
「本気だよ。きみが好きだ」
 リースはその愛らしい顔を上げ、川を挟んで私を見つめた。
「私もです」答えた彼女の目の中で、涙が星のように輝いた。「そっちに行ってもいいかしら?」