永遠倶楽部

 ケンブリッジ大学ジーザス学寮には、現在構内に寝起きしている者の中にも知っている者はほとんどおらず、さらにその扉を開け、中を見たことのある者となるとさらに少ない人数しかいない部屋がある。その部屋は大食堂の脇、回廊の角にある急勾配の階段(由来となった逸話はもう忘れられてしまったが、伝統的に〈お牛小路〉と呼ばれている)を上がり、最上階に出て右手にある。部屋の中はがらんとしていて家具も置かれておらず、どっしりとした楢材の扉にかけられた南京錠もめったに解かれることはない。かつては予備の台所用品の保管場所として使われていたこともあったが、しかし今はそうした屈辱的な使われ方すらされておらず、静寂と暗闇の中にひっそりと放置されている。というのも、十八世紀のいつ頃かに一つしかない窓をふさがれ、外光を完全に遮断されてしまったためで、現在室内に射し込む明かりがあるとすれば、まれに何かの用事があって入り口の扉が開けられる時に、戸口から入る光くらいのものだろう。
 しかしながら、それほど遠くない昔にはこの部屋には人が住んでいたらしく、そして今のように暗闇の中に捨て置かれてしまう以前は、ジョージ二世在位当時の学寮内での暮らしの水準に照らし合わせるならば、家具調度もきちんとしつらえられた快適な部屋だった。殿方が鬘をかぶり、きらびやかに着飾っていた時代には、今も残っている大きな暖炉の前で、のんびりと足が伸ばされ、杯や噂話が交わされていたのだ。部屋は広々としているし、平原や街の広場を望む東向きの窓から射し込む光で明るく照らされている時などは、社交好きの御仁にとってはさぞかし愉快な場所だったに違いない。
 そんな部屋が今や一世紀半近くにわたってひっそりと闇に包まれたままになっているわけだが、その原因となった出来事について、ここにその簡潔で客観的なあらましを記そう。
 十八世紀の中頃にかけて、ケンブリッジ大学には多種多様な社交目的の倶楽部があった。学寮の応接室や個室、構外の宿屋や喫茶店に人々は集まった。政治色のある倶楽部、宗教関係の倶楽部、学士や文人向けの倶楽部。表向きの看板がどのようなものであれ、いずれも親睦を目的としたものだった。中には(その会員には学生ばかりでなく大学職員も含まれていたのだが)いくぶん不健全なものもあって、そうした集まりは、田舎ではたかがしれているとはいえ、当時ロンドンで悪名を馳せていた〈地獄の業火倶楽部※1〉のような会の放蕩ぶりを真似していたのだった。
 そうした不届きな倶楽部の中に、たちまち他の同種の倶楽部よりも一層の悪評を集めるようになったものがあった。奇妙な巡り合わせから(詳細は後述する)、一七六六年までの活動内容を記したこの倶楽部の行事録がジーザス学寮の学長の手に渡り、そして私の知る限りではその原本は残っていないが、今私の目の前にはその写しがある。書体こそより現代風になってはいるものの、そこに淡々と記された一連の事実はあまりにも奇怪であり、それがゆえに、読者諸兄にはそれを真実として受け止めていただけるよう私からお願いしなければならない。行事録の原本は赤い革装丁の四六判で、赤い絹糸で綴じてあったと記述がある。書き込みは約四十頁にわたり、一七六六年十一月二日のもので終わっている。
 問題の倶楽部の名前は〈永遠倶楽部〉という――この名前の由来は行事録に記載されている会則を読めば十分に納得いただけるだろう。会員数は七名に限定されており、会員たちはいずれも二十二歳から三十歳までの若者だったようである。その内訳は、トリニティ学寮の一般学生が一名。いくつかの学寮の研究員が三名。うち一名はジーザス学寮の者で、チャールズ・ベラシスという名前はここで特別に紹介しておくべきだろう。その他にこの地方の地主が一名と、六人目はケンブリッジ在住の若い医師。倶楽部の創設者にして会長は、アイルランドのとある貴族の子息、アラン・ダーモット殿下で、在学中に爵位を得た彼は街で無為の日々を送っていた。その暮らしぶりと人となりについてはほとんど知られていないが、しかしわかっているほんのわずかな一面すらも極めて質が悪かった。彼は一七四三年、パリで果たし合いに敗れて死亡している。その顛末についてここで詳しく述べることはしないが、それはしかし、彼の並外れた残忍さと邪悪さがいかほどのものであったかを物語るものではある。
 この行事録の冒頭部分から、倶楽部の会則をいくつか引用しよう。これを読めば、この会がどういった趣旨のものであったかがおわかりいただけるだろう。

一. 本倶楽部は七人の〈永遠人〉からなる。各員は運命により定められるまま、〈こちら側〉あるいは〈あちら側〉に在る者である。
二. ここに記す本倶楽部の会則は、永遠にして不変である。
三. 今後、本倶楽部への入会者、及び脱会者はこれを認めない。
四. アラン・ダーモット殿下を、本倶楽部の永遠の会長とする。
五. 会長を除く、〈こちら側〉にいる〈永遠人〉の最年長者を本倶楽部の書記とし、同人は本行事録に倶楽部の活動内容、いずれかの〈永遠人〉が〈あちら側〉に移った日付、倶楽部に支払われたすべての罰金を記録する。書記を司る〈永遠人〉が〈こちら側〉を去る場合、本人が直接、あるいは確かな人づてによって、本行事録をその時点で〈こちら側〉にいる次の年長者に渡すものとし、同人は同じく本行事録に活動内容等を記録し、次の年長者に引き継がなければならない。右条項の不履行は、会長の裁量により罰金あるいは処罰を科されるものとする。
六. 毎年十一月二日の万霊節の午後十時、〈永遠人〉は回り持ちによる饗応役の当番となった〈こちら側〉の会員の住居にて晩餐に集い、その席にて、各員は本行事録に氏名とその時点での所在地を記すものとする。
七. 右年次会への出席は〈永遠人〉全員の義務であり、よって招かれていないとの釈明は認められない。いずれかの〈永遠人〉が右年次会を欠席、あるいは自らの当番の際に饗応役の務めを果たせなかった場合、同人は会長の裁量による処罰を受けるものとする。
八. ただし、十月中、遅くとも万霊節の七日前までに倶楽部会員の過半数すなわち最低四名が集まり、本行事録に右年次会に反対する旨の書名をした場合、右二項の定めるところにもかかわらず、同年は年次会は催されず、同会の欠席を理由とする処罰も科されないものとする。

 会則の残りのものはあまりにも冒涜的すぎるか、あるいは幼稚すぎるかのどちらかなので、ここには引用しない。それらを見るに、会員たちがいかに軽い気持ちでこうした非常識な義務を引き受けていたかがわかる。その最たる例が、最後の〈永遠人〉が〈こちら側〉を去った後の行事録の扱いに対する規定がまったくないことで、そのためにそれが倶楽部の部外者の手に渡るという不測の事態が起こり、その結果、その中身が現在にまで保存されることになったのである。
 十八世紀前半に大学内で流行したこうした倶楽部の倫理的な水準はおしなべて低かったのだが、それでも〈永遠倶楽部〉の会員たちの公序良俗に対する目に余る逸脱ぶりは役所の厳しい非難を招くこととなり、二、三年後には倶楽部は事実上解散し、会員たちは大学を追われてしまった。たとえば、前述のチャールズ・ベラシスは学寮を去ることを余儀なくされ、除籍こそ免れたものの二十年近く不在のままだった。しかし倶楽部の行事録を読むならば、その解散という事実の裏に隠された恐るべき真の理由が明らかになる。
 一七三八年から一七四三年の間には、倶楽部は万霊節の日以外にもたびたび集まっており、行事録には数多くの会合についての記載がある。書記の手による数々の不謹慎な冗談交じりの付記を除けば、これらは会員の出欠、罰金の額などといった無味乾燥な記録ばかりである。が、一七四三年十一月二日の年次会で、こうした判で押したような書面に初めて変化が現れる。晩餐会は前述したケンブリッジの医師宅で催された。会員の一人、元トリニティ学寮の一般学生だったヘンリー・ダベンポートが欠席していた。彼は当時、出征してドイツのダッティンゲンにいたのである。行事録には次のようなラテン語の書き込みがある。
「H・ダベンポート、欠席のため会長により処罰さる」
 さらに次の頁には――
「ヘンリー・ダベンポート、砲弾を受けて〈あちら側〉の会員となる。一七四三年十一月二日」
 十一月二日の日付の下には、会員たちそれぞれの手書きによる氏名と所在地が記されている。一行目には、肉太の大きな筆跡で、「会長アラン・ダーモット。陛下の御許に」とある。この十月、ダーモットは確かにさる若き王位継承者の付き人としてパリにいたので、彼の記したこの所在地は、当時会員たちにはその事実を指しているものと解釈されたのは間違いないだろう。しかしその年次会の五日前の十月二十八日、彼は前述の通り果たし合いに敗れて死亡している。彼の死の報せが十一月二日の時点でケンブリッジに届いていたはずはない。というのも、右に引用したヘンリー・ダベンポートが死亡したとの書き込みの下に、十一月十日付けで次のような記述があるのである――
「本日、某フランス人騎士の手により、会長が〈あちら側〉の会員となった由の報せあり」
 そしてこの後に突然、それまでの不敬な書き込みとは一転して、感情をさらけ出すような走り書きが続く。
「神よ、我々を禍から守りたまえ」
 会長の訃報を受け、〈永遠人〉たちは蜘蛛の子を散らしたかのごとくに方々に逃げ去った。誰もがケンブリッジを離れ、お互いから遠く隔たった土地に身を隠した。しかし倶楽部は存在し続けた。書記係は相変わらずおぞましき記録をつける義務を負っていた。生き残った五人には、自分たちに課せられた恐るべき会則を無視する勇気はなかった。会長がそこにいることに対する恐怖から、十一月の年次会にはもう絶対に出られなかった。しかし、これもやはり恐怖心から、念のために毎年十月に集まり、年次会への反対の署名をしたためることも怠らなかった。以来五年間、行事録には会長の死についての書き込みの下に五つの書名が書き足されていき、そしてそれが倶楽部としての活動のすべてだった。やがてまた一人、書記ではない会員が他界した。
 さらに十八年にわたって、四人の憐れな会員たちは年に一度集まり、会則で定められている通り年次会に対する反対の署名を繰り返した。その間、書名とともに記された所在地からするに、チャールズ・ベラシスは表向きはおとなしく、礼儀正しくなってケンブリッジに戻ったようである。彼は回廊の角の階段を上がって、最上階にある前述の部屋に住んでいた。
 そして一七六六年、行事録に新たな筆跡で新たな書き込みが加わる。
「一月二十七日、書記フランシス・ウィザリントン、〈あちら側〉の会員となれり。同日、本行事録が、我、ジェームズ・ハーヴェイの元に届けらるる」
 ハーヴェイはこのわずか一月後に死亡し、そして三月七日付けで似たような書き込みがあって、行事録はウィリアム・キャスタートンに、今回もまた不可解なほどに速やかに届けられている。そして五月十八日、チャールズ・ベラシスは、キャスタートンの死亡したその日に、倶楽部の最後に生き残った〈こちら側〉の会員として、行事録を引き継いだ旨を記している。
 私の目的は事実のみを記すことであるため、この自分自身への死刑宣告とも言うべき一文をしたためていた時の、この哀れな書記係の心情を描写するつもりはない。ウィザリントンが死亡した時点で、生き残った三人は、二十三年の休止期間を経て、これからは毎年あのおぞましき晩餐会を、しかも新たに〈あちら側〉の会員となった者たちも加えて開かなければならず、さもなければ会長の容赦ない処罰を受けることを思い知ったに違いなかった。後者の選択肢への恐怖、それこそが、行事録の不可解なまでに手際のよい引き渡し方、そして書記係を引き継いだ最初の二人の相次ぐ死に対する答えだろう。そしてそれ以外の選択肢がなくなってしまった今、ベラシスはそれがどのようなものであれ、倶楽部の会則に違反した罰を引き受ける覚悟だった。
 ジョージ二世時代の反道徳的な気風はもはや大学から過ぎ去っていた。その後にやって来たのは体面を重んじる時代で、宗教や道徳はもはや公然と反抗されることはなくなった。ベラシスにも若かりし頃の不遜さはもうなかった。今では思慮深く、模範的ですらあったかもしれない。過去の不祥事については新しい世代のほとんどは知らず、当時を知る数名も過去を蒸し返すことはなかった。
 一七六六年十一月二日の夜、ある恐ろしい出来事が、学寮の古株の住人たちにそうした悪しき日々の記憶を呼び覚まさせた。十時から真夜中にかけて、ベラシスの部屋で身の毛のよだつような騒々しい物音が続いたのである。彼と一緒にいるのが何者なのか、誰にもわからなかった。二十年の間聞かれることのなかった冒涜的な叫び声や卑猥な歌が、構内にいた者を眠りから覚まし、書物から顔を上げさせた。しかし、暴れ騒ぐ声の中にベラシス自身の声はなかった。やがて夜中の十二時になると、回廊に突然の沈黙が下りた。しかしながら、学長は立派な同僚の悪習がぶり返してしまったこと、そして学生たちがこの乱痴気騒ぎのとんでもない前例を真似するのではないかとの不安で一睡もできなかった。
 翌朝、ベラシスの部屋のある一画はしんと静まりかえっていた。夜が明けてまもなく部屋の扉が開かれると、閉ざされたカーテンの隙間から忍びやかに射し込む早朝の光が、奇妙な光景を照らし出していた。テーブルのまわりに椅子が七つ、あたかも誰かが座っていたかのような形で置かれており、そのいくつかはひっくり返され、調度類はまるでどんちゃん騒ぎか何かの後のようにめちゃくちゃに散乱していた。テーブルの一方の端には、ベラシスが椅子に腰かけたまま事切れており、まるで何かおぞましい光景を視界から閉め出そうとするかのように、テーブルの上に重ねた前腕の上に顔を埋めている。その前には、ペンとインク、そして赤表紙の行事録があった。最後の書き込みのあるページには、十一月二日の日付の下に、一七四二年以来初めて、〈永遠倶楽部〉の七人の会員の署名が並んでいたが、所在地は記されていなかった。ダーモット会長の署名と同じ力強い筆跡で、七つの書名の下にラテン語の追記が書き込まれていた――
「C・ベラシス、会則不履行のため会長により罰せらるる」
 行事録は学長によって回収され、おそらくその内容を知っていたのは彼一人だっただろう。そこに記された詳細から、この不祥事に自らの学寮が関係していることを知った彼はこの一件を自分だけの胸にしまい、決して他言しなかった。それでもやはり、当時の学生や職員たちは、あの事件には何か裏があると感じていたに違いない。というのも、ジーザス学寮には毎年十一月二日の夜になると、ベラシスの部屋から忌まわしい騒ぎ声が聞こえてくるという迷信が今なお根強く残っているのである。両隣の部屋の住人が今までそのような声を聞いたという確かな証言は残されていない。実際、行事録を見れば明らかなことだが、会則を起草する際に後先のことまできちんと考えられていなかったために、最後の〈永遠人〉が〈こちら側〉からいなくなった後に万霊節の行事を続けていくための条件は何も定められていないのである。 ならば、そうした迷信は侮蔑をもって遇し、まともに取り合うべきではないだろう。しかしその理由のためなのか、あるいは他に理由があるのか、その最上階の部屋は閉め切られ、当時から今日にいたるまで空き部屋のままになっている。