イスの令嬢

ロバート・W・チェンバース

シカシテ我ハ信ズ。我、ヘラクレイトスノ伝フルニ、

真実ノ隠サレタルナル昏キ井戸ヲ下リタルヲ。

我が甚だ奇とするもの三つ、否、四つありて、いずれも我心得ず。

空を飛ぶ鷹のありさま、岩の上を這う蛇のありさま、

大洋に浮かぶ船のありさま、女人を愛づる男のありさまなり。

 どこまでも広がる荒涼たる風景が、心に影を落としつつあった。私は腰を下ろし、この状況に向き合おうと、そしてもしできるものならば、現状を脱する道しるべとなるような眺めを思い出そうとした。もう一度海が見えさえすれば、何もかもがはっきりするのだが。崖の上からグロワ島が見えるので、島の形から自分がどのあたりにいるのか見当がつく。
 私は銃を下ろし、大岩の陰に膝をついてパイプに火を点けた。時計を見ると、四時前だった。夜明けに出発したから、ケルセレクを遠く離れたところまで来てしまったかもしれない。
 前日、ケルセレクの南岸の崖の上にグルヴァンと並んで立ち、今私が行き惑っているもの寂しい荒野を見渡した時には、このうねりを描く丘陵は地平線まで続く平坦な牧草地のように見えたし、見た目の距離感がどれほど当てにならないものかはわかってはいたものの、ケルセレクからは草に覆われた窪地にしか見えなかったものがハリエニシダとヒースに覆われた広大な渓谷で、点々と散らばる大岩が、実際は巨大な花崗岩の崖だなどとは思いもよらなかったのだ。
「よその人にゃあよくねえ場所でさあ」年老いたグルヴァンは言っていた。「案内を連れていったがいいでさ」
 私はこう答えた。「迷いはしないよ」
 迷ってしまったな。地面に腰かけてパイプを吹かし、海風を顔に浴びながら私は思った。
 どちらを向いても、目に映るのは花をつけたハリエニシダとヒースと花崗岩の大岩に覆われた荒野だった。見渡す限り一本の木も、ましてや一軒の家もない。しばらくすると私は銃を取り上げ、夕陽を背にして再び歩き始めた。
 時おり、行く手を大きな水音をたてて小川が横切っていくが、それを辿っても無駄足になるだけだった。それらは海に流れ込むのではなく、荒れ地の奥へと流れていき、窪地に溜まって葦(あし)に覆われた池になっていたりした。いくつか辿ってみたが、行き着く先はどれも沼か、あるいは深閑とした小さな池で、私が姿を見せると鴫(しぎ)たちが啼き声を上げて慌ただしく飛び立ち、空にぐるりと円を描いて飛び去っていった。
 私は疲れを感じ始めた。猟銃の吊革が、肩当ての部分を二重にしてあるにもかかわらず、擦れて痛かった。太陽はだんだん低くなっていき、黄色いハリエニシダの花や地面の水溜まりを横から照らした。
 一歩ごとに伸びていくかに見える巨大な影法師に導かれるまま、私は歩き続けた。ハリエニシダがゲートルに擦れ、踏むとぱりぱりと音をたてて茶色い地面に黄色い花びらの雨を散らした。羊歯(しだ)の葉がゆらゆらと上下に揺れ、風になびいた。ヒースの茂みから兎(うさぎ)たちが飛び出して羊歯の中をちょこちょこと走り去り、沼を覆う水草の中から、鴨たちのくわっ、くわっというのんびりとした啼き声が聞こえてくる。
 狐が一匹、こっそりと行く手を横切り、水を飲もうと流れの早い小川の脇に身を屈めた時、すぐそばの葦の茂みの中から鷺が一羽、大きな翼をのっそりと羽ばたかせて飛び立った。
 振り返ると、夕陽が荒野の端に触れそうだった。とうとう、私はこれ以上先に進んでも無駄だと諦め、少なくともひと晩は野宿をしなければならないと覚悟を決めると、糸が切れたようにばったりと地面に倒れ込んだ。身体に当たる午後の陽射しが暖かかったが、海風が吹き始めていて、濡れた狩猟用ブーツに、冷気がじわりと染みつつあった。頭上高く、鴎たちが白い紙きれよろしくぐるぐると旋回し、時おりふわりと浮き上がる。どこか遠くの沼地で、杓鴫のもの寂しい啼き声が上がった。夕陽はゆっくりと荒野の向こうに沈んでいき、天頂は残照の赤に染まった。私は空がほんのりと淡い金色から桃色に、さらに燠火のような濃い橙(だいだい)へ色を変えていくのを眺めていた。私のまわりを蚊柱が舞い漂い、静かな空の高みを、蝙蝠が一羽、舞い下りては舞い上がった。
 瞼が重くなってきた。と、羊歯の茂みの中で突然がさがさと大きな音がして、私は眠気が覚めてはっと目を上げた。大きな鳥が一羽、見上げた私の顔の前に羽をひらひらと震わせながら浮かんでいた。一瞬、私は呆然として身動きできなかった。と、何かが茂みの中を通り過ぎ、その瞬間、その鳥はふわりと舞い上がり、空中でぐるりと旋回して、真っ直ぐ茂みに飛び込んだ。
 私はすぐさま立ち上がり、ハリエニシダの茂みを覗き込んだ。すぐそばのヒースの薮の中で揉み合う音がし、やがて静かになった。私は銃を構えてそちらに近づいていったが、茂みの前まで来ると銃を下ろし、驚きのあまり無言のままじっと立ち尽くしていた。
 死んだ兎が一羽、地面に横たわっており、そしてその上に美しく堂々たる姿の鷹が一羽、一方の鉤爪を兎の首に埋め、もう一方でぐったりとした脇腹をしっかり抑えつけていたのだ。しかし私を驚かせたのは、ただ鷹が獲物の上に乗っている光景だけではなかった。それならば一度ならず見たことがあった。その鷹は両脚に紐のようなものが巻きつけてあり、そしてそこに鈴らしき金属の丸いものがぶら下がっていたのだ。鷹はその獰猛な黄色い目をこちらに向け、それから身を屈めて湾曲した嘴を獲物に突き立てた。
 その時、ヒースの茂みの中で慌ただしい足音がして、若い娘が一人、私の前の下生えの中に飛び出した。こちらには見向きもせず、彼女は真っ直ぐに鷹に歩み寄ると、籠手を着けた手をその胸の前に差し伸ばし、すると鷹は獲物の上からそちらに飛び移った。娘は器用な手つきで鷹の頭に小さな頭巾をかぶせると、それを籠手にのせたまま身を屈め、野兎を拾い上げた。
 娘は鷹の両脚に紐を通し、その端を腰に巻いたベルトにつないだ。それから来た道を引き返し始めた。そばを通る時に私は帽子を取ったが、彼女はほとんどそれとわからないくらいの会釈を返しただけだった。目の前で繰り広げられた場面に仰天し、すっかり見とれてしまっていたために、私は彼女こそが自分の救い主であるということに気づかなかった。しかし、歩み去っていく彼女を見て、この風の吹きすさぶ荒野で眠りたいのでない限り、すぐに声をかけた方がいいと思い出した。
 最初の呼びかけの言葉に、彼女は躊躇うような素振りを見せ、私がそちらに足を踏み出すと、その美しい瞳に恐怖の表情が浮かんだような気がした。が、謙虚な態度で自らの窮状を説明すると、彼女は顔を赤らめ、びっくりした様子で私を見つめた。
「まさか、ケルセレクからいらしたんですの!」
 美しいその声にはここブルターニュの訛りはまったくなく、私の知っているいかなる訛りも混じってはいなかったが、それでいてそこには聞き覚えのある何かがあった。古風で漠然とした、古い歌の旋律のような何かが。
 私は自分がアメリカ人で、フィニステール県には不案内であること、趣味で銃を使って狩りをしていたことを話した。
「アメリカの方」と、彼女はさっきと同じ古風な、音楽のような抑揚のある口調で私の言葉を繰り返した。「私、アメリカの方にお目にかかるのは初めて」
 彼女はしばらく黙って立っていた。それから私の方を向いて言った。「今からでは、夜通し歩いてもケルセレクには着きません。たとえ案内人がいたとしても」
 嬉しい知らせだった。
 私は切り出した。「でも、農夫の小屋でも見つかればそれでいいんです。そこで何か食べるものを分けてもらえて、雨風がしのげれば」
 彼女の腕にとまった鷹が羽ばたき、首を振った。娘はその艶やかな背中を撫で、それからこちらを見やると、
「見回してご覧なさい」優しい声で言った。「この荒野の果てが見えまして? 北も、南も、東も、西も、荒野と羊歯(しだ)以外のものが見えまして?」
「いいえ」私は答えた。
「荒野は荒々しくて、寂しい場所です。入るのは簡単ですが、時には入ったまま出られない者もいます。ここには農夫の小屋はありません」
「それなら――ケルセレクがどちらの方角にあるか教えてもらえませんか。帰るのが明日になるにしても、ここまで来るのにかかった以上の時間はかからないでしょう」
 娘はほとんど憐れむような表情で再び私を見つめた。
「ああ――来るのは楽なものです。かかっても何時間。でも出るのはそうはいきません――何世紀もかかることもあります」
 私は驚いてぽかんと相手を見つめたが、聞き間違いだと思うことにした。私が口を開く前に、彼女は腰のベルトにつけた呼び子をくわえ、吹き鳴らした。
「座ってお休みください」と、私に向かって言った。「長い道のりを歩いて、お疲れでしょうから」
 娘は襞(ひだ)の入ったスカートを掴み、私についてくるようにと身振りで促して、優雅な身のこなしでハリエニシダの茂みを抜け、羊歯の茂みに囲まれた平らな岩へと私を導いていった。
「すぐに来ますわ」娘はそう言い、岩の一方の端に腰かけ、反対側に座るようにと私を促した。暮天を染める残照が薄れ始め、薔薇色の夕霞を透かして一番星が微かに瞬いていた。水鳥が一羽、細長く、揺らめく三角形となって、私たちの頭上の空を南に流れていき、周囲の沼から千鳥の鳴き声がした。
「美しい場所です――この荒野は」娘は静かな声で言った。
「美しい。でもよそ者には残酷な場所ですね」私は答えた。
「美しくて、残酷……」娘は夢見るような口調で繰り返した。「美しくて、残酷」
「女の人のように」私は愚かにもそう口走った。
「あら」彼女は小さくはっと息を呑み、こちらを見て声を上げた。その黒い目が私の目と合った。怒っているのか、それとも怯えているのだろうか。
「女の人のように」彼女は小声で繰り返した。「何て酷(ひど)いことを言うんでしょう!」そこでしばしの間があって、あたかも独り言を言うかのように、「そんなことを言うなんて、何て酷(ひど)い方なのかしら」
 この無害とはいえ愚かな発言を何と言って詫びたらいいものかわからず、しかし相手がひどく気にしているようなので、私は自分が知らず知らずのうちに何かとんでもないことを言ってしまったのではないかと思い始め、フランス語が外国人に仕掛ける落とし穴や罠の数々を思い出してぞっとした。自分の言った言葉をあれこれ思い返していると、人声が近づいてきて、娘は立ち上がった。
「いいえ」と、色白の顔にうっすらと微笑みの痕跡を浮かべ、彼女は言った。「謝罪は受け入れませんわ、ムッシュー。その代わり、私があなたが間違っていることを証明します。それが私の仕返しです。ほら。ハストゥールとラウルが来ましたわ」
 薄闇の中、二人の男がぬっと姿を現した。一人は肩から袋を背負い、もう一人は給仕係が盆を抱えるような具合に、身体の前に一つの輪っかを支えている。その輪は男の両肩に留められた革紐で吊されており、輪の上には、頭巾をかぶり、からからと鳴る鈴をつけた鷹が三羽とまっていた。
 娘はそちらに歩み寄ると、素早く手首を返してそこに乗っていた鷹を輪に移し、鷹は輪の上をするすると横に移動して、頭巾の頭を揺すったり毛繕いをしている仲間たちに加わった。彼らの脚につけられた鈴が再びからからと鳴った。もう一人の男が前に進み出て、恭しく一礼すると、娘から野兎を受け取って、獲物を入れる袋の中に落とした。
「二人は私の〈勢子〉です」そう言って、娘は穏やかな威厳を湛えてこちらを向いた。「ラウルは立派な鷹匠で、いつかは宮廷狩猟長になるでしょう。ハストゥールも鷹狩りの名人です」
 二人の男は無言のまま私に向かって丁重に礼をした。
「私、さっき言いましたわね、ムッシュー」娘は続けた。「あなたが間違っていることを証明しますって。では、これから仕返しをしますわ。あなたには、私の家で食事をして、ひと晩泊まっていただきます」
 私が答える前に、彼女は二人の鷹匠に向かって話しかけ、すると彼らはすぐさま歩き出した。優雅な仕草で私を誘(いざな)うと、彼女もその後についていった。私がどれだけ感謝しているかうまく伝えられたかどうかはわからないが、露に濡れたヒースの野を歩きながら、彼女は私の話を嬉しそうに聞いていた。
「疲れてはいませんの?」彼女は尋ねた。
 彼女と一緒にいると疲れなどすっかり忘れていた。私はそう口にした。
「そういうお世辞、少し古めかしいと思いませんかしら」彼女は言い、私が困惑してかしこまっているのを見ると、すぐに言葉を継いだ。「もちろん、嬉しいですけれど。古めかしいものはみんな好きですし、殿方にそうやって気を遣っていただけるのはありがたいことですもの」
 幽(かす)かな靄に包まれて、今や私たちのまわりの荒野はひっそりと静まり返っていた。千鳥たちの啼き声も止み、蟋蟀(こおろぎ)や野原に棲む小さな生き物たちも、私たちが通りかかると沈黙したが、私たちが遠ざかってからまた啼き始めるのが聞こえるような気がした。二人の背の高い鷹匠はずっと前の方を歩いており、鷹の鈴のからんからんという微かな音が、遠くの、囁くような鐘の音のように私たちの耳に届いた。
 突然、堂々たる姿の犬が一頭、前方の霧の中から飛び出し、続いてもう一頭、さらにもう一頭と、ついには六頭かそれ以上が、隣を歩く娘のまわりを跳びはねていた。彼女が籠手(こて)を着けた手で撫で、フランス語の古い写本の中で見た覚えのある、古風な言葉で話しかけると、犬たちはおとなしくなった。
 前方を行くラウルの抱えた輪にとまっていた鷹たちが、翼を羽ばたかせ、啼き声を上げた。どこか見えないところから、狩猟用の角笛の音が、ふわりと宙に浮き上がるように鳴り響き、荒野を漂った。猟犬たちがいっせいに駆け出し、薄闇の中に姿を消した。鷹たちは翼を羽ばたかせ、専用の輪にとまったまま甲高い声で騒ぎ立てた。娘は角笛の旋律に合わせて歌を口ずさみ、澄んだ甘い歌声を暮れ空に響かせた。

  狩人、狩人、狩りやれもっと。
  家にはロゼット、ジャネットン。
  とんとん、とんてん、とんとん。
  夜(よ)が開けたなら引き返さんと、
  聞こゆは愛神の睦み言。
  とんとん、とんてん、とんとん。

 そうして甘やかな歌声に耳を傾けているうちに、前方にぼんやりと浮かび上がった灰色の塊が見る見る鮮明になっていき、猟犬と鷹たちの騒がしい啼き声に混じって、角笛の音が今一度朗々と鳴り響いた。門前の松明(たいまつ)の火明かりがちらちらと揺らめき、開いた門扉から光がこぼれていた。私たちは壕に渡された、がたがた揺れる木の跳ね橋を渡った。向こう岸に着くと、橋は軋む音をたててゆっくりと上がり、門をくぐった先は四方を壁に囲まれた小さな石畳の中庭だった。
 開いた戸口から男が一人出てきて、頭を下げて挨拶すると、私の隣に立つ娘に杯を差し出した。彼女はそれを受け取り、唇をつけ、それからその手を下ろすと、私の方を向いて小声で言った。「ようこそいらっしゃいました」
 その時、鷹匠の一人がもう一つの杯を手にやって来て、それを私に手渡す前に娘に差し出し、彼女はそれを受け取り、味見をした。鷹匠は杯を受け取ろうとしたが、少し躊躇(ためら)った後、彼女は自ら私にそれを手渡した。これは格別に丁重なもてなしなのだと感じはしながらも、私はどう振る舞っていいものかわからず、すぐには杯に口をつけなかった。娘の顔が真っ赤になった。今すぐに何かを言わなくてはと、
「マドモワゼル」私はたどたどしく言った。「異邦人の私を、まだ見ぬ危険から救ってくださった、フランスでもっとも優しく、もっとも美しき城主であるあなたに、乾杯を」
「神の御名のもとに」囁くようにそう言って、彼女は杯をあおる私の前で十字を切った。それから今しがた男が出てきた戸口をくぐると、愛らしい身のこなしでくるりとこちらを振り返り、両手で私の手を取ると、先に立って城館の中に入っていき、その間何度も何度もこう繰り返した。「心から歓迎いたしますわ――ようこそ、イス城へ」