1 街

 

 この世の中にはどうやら、冒険心など露ほども持ち合わせていないにもかかわらず、しかしそれでいて、その起伏のない人生において一度か二度、世間がはっと息を呑み、思わず目を逸らしてしまうほどの摩訶不思議な体験をする人間があるようである。そしておそらく、心霊博士ジョン・サイレンスの広く張り巡らされた探究心の網にかかり、その深い人情と、忍耐と、その卓越した心理的共感能力に訴えかけるのは、他のどのようなものよりもこうした類いの事例であり、そしてそれはしばしば、複雑怪奇にして人心に強く訴える事件の解決につながることもあった。
 あまりにも不可思議で突拍子もないがゆえにとても信じられないような事件を取り上げ、その隠された起源を辿っていくことが、博士は大好きだった。絡み合い、もつれた事件の核心を解きほぐし、そしてその過程で苦しんでいる患者の心を解放すること――これこそが博士の生きがいだった。そしてそうやって彼の解くもつれは、実際になんとも奇想天外なものなのだった。
 もちろん、世間はこれならば信じてもいいというような、もっともらしい理由を求めるものである――少なくとも、謎が解けたような気になれるような何かを。そのような体験をしたのが冒険好きな人間ならば世間はあっさり納得する。そうした人物は波乱に満ちた人生について適当な説明を常に持ち合わせているものだし、生まれつき派手な体験をするような状況に身を投じたがる性格なのだ。それ以上の説明はいらない。一方で、退屈で、平凡な人物には異常な体験をする権利はないと思われがちで、その人のことを平凡だと思い込んでいた世間は、動揺するばかりか、裏切られたような気分にさえなる。自分たちの勝手な思い込みが踏みにじられてしまうからである。
 人々は言う。「そんなことが、あんなやつの身に起こるなんて! あんな平々凡々な人間にねえ! なんとも馬鹿らしい! きっと何かの間違いだ!」
 しかしながら、小柄なアーサー・ヴェジン氏の身に本当に何かが起こったことに疑いの余地はなく、その不思議な体験を、彼はジョン・サイレンス博士に語ったのだった。外的なものであれ内的なものであれ、それが現実に起こったことは間違いない。その話を聞いた氏の友人たちからは、「そういうことは、あの頭のおかしなイザードか、あるいはあの変わり者のミンスキーならまだしも、ヴェジンの身に起こるなんてあり得ない。あいつはあの身の丈に合った生き方をして、あの身の丈に合った死に方をする運命なんだから」などと言われてからかわれはしたのだが。
 しかし、死に方はどうあれ、この一件を除けば平坦なヴェジンの人生の中で、例外的にこの件に関する限りでは、彼の体験したことは「身の丈に合った」ようなちっぽけなものではなかった。その体験を語る彼の、色白の線の細い顔が変わるのを見、話が進むにつれてその声が穏やかで、抑えたものになっていくのを聞くならば、途切れがちな彼の言葉が時にうまく表しきれない現実味がありありと伝わってくるのだった。そうやって事件について語るたびに、彼はそれを追体験しているのだ。そうなると、アーサー・ヴェジンという人物そのものが影を潜めた。ただでさえ控え目な性格はさらにおとなしくなり、彼の語る物語は、自分などがこのような体験をして申し訳ないとばかりの、長い長い謝罪の言葉になった。あたかも不思議な逸話の登場人物となってしまったことを釈明し、許しを請うているかのように。
 ヴェジンは気弱で、優しく、繊細な人物で、自己を主張することはめったになく、人にも動物にも親切で、「いや」と言って何かを断ったり、欲しいものをはっきり欲しいと口にするようなことがほとんど体質的にできないのである。その全生涯は朝から晩まで、わくわくするような出来事とはまるで無縁のようで、何かあるにしてもせいぜい電車を乗り過ごすか、あるいは乗合自動車に傘を忘れるくらいのものだった。そしてこの不思議な出来事が起こった時、友人たちがそうではないかとうすうす感づき、本人もあまり認めたがらなかったものの、四十をずいぶんと過ぎていた。
 ヴェジンの語る体験をすでに一度ならず聞いていたサイレンス博士は、その時々で細部に若干の違いがあったと言っていたが、しかしすべてが本当のことであることは間違いなかった。あらゆる場面が彼の心に映画のフィルムのように忘れ得ぬほどくっきりと焼きつけられているのだ。思い込みや作り話は一つもなかった。そして、彼がその体験を細大漏らさず話す時、見逃しようのない変化が起こった。人懐こそうな茶色い目が輝き、普段は念入りに抑え込まれている愛嬌のある一面が表に出てくる。もちろん控え目なところは相変わらずだが、話をしているうちに現在のことを忘れ、過去を追体験しているその姿は楽しそうにすら見えてくるのだった。
 その事件が起こったのは、旅行からの帰り道のことだった。彼は毎年夏になると、フランス北部の山かどこかに一人旅に出かけるのだ。持ち物と言えば網棚に乗せた旅行鞄が一つあるばかりで、車内はぎゅうぎゅう詰めに混み合い、乗客のほとんどは救いがたい休日のイギリス人だった。
 ヴェジンはこの連中が嫌いだった。同国人だからというのではなく、やかましく、邪魔っけで、その大きな手足とツイードの服を見ていると、せっかく休日の落ち着いた雰囲気に身を委ねて、あたりの景色に溶け込んで自分が何者であるかも忘れていたのに、それがみんな台無しになってしまうからである。彼らは吹奏楽団よろしくどっしゃんがっしゃんとやかましくぶつかってきて、これではさすがに気弱なヴェジンも、自分ももっと声高に自己主張をした方がいいのではないか、そういえば自分は、望んでもいないし本当はどうでもいいようなあれこれ、例えば角の席だとか窓を上げるだとか下げるだとか、そういったことにもっと執着してもいいのではないかと考えてしまうほどだった。
 列車が十分間の小休止のためにフランス北部の小さな駅に停車し、強張った足を伸ばそうとホームに下りた彼は、他の車両からさらなるイギリス人の群れがぞろぞろと侵攻してくるのを目にして幻滅し、これ以上旅を続けるのが嫌になってきた。ここでさすがの彼の軟弱な魂も反旗を翻し、この小さな街にひと晩泊まり、翌日にもっと空いた列車でもっとのんびり帰ろうという考えが頭に閃いた。その考えが浮かんだ時には、すでにフランス人の車掌が「ゴ乗車願イマス」と叫んでおり、彼の乗っていた客室の廊下はすでに満杯だった。珍しく、彼は決然と行動に出て、急いで荷物を取りに戻った。
 廊下も昇降ステップも通ることができないので、彼は窓をこつこつと叩き(窓際の席だったので)、向かいの席に座っていたフランス人に、片言のフランス語でここで下りるつもりであることを説明し、荷物を渡してくれるように頼んだ。するとこの老齢のフランス人は、半ば警告するような、半ば非難するような、死ぬまで忘れられないような目で彼を見据え、動き出した列車の窓越しに荷物を手渡してくれた。そしてそれと同時に、ヴェジンの耳元で小声で長い言葉を囁いたのだが、彼はその最後の部分だけしか聞き取れなかった。〈à cause du sommeil et à cause des chats〉と。
 そのたぐいまれなる霊感の強さによって、そのフランス人こそがこの事件における重要人物であることをたちどころに見抜いたサイレンス博士の質問に答えて、ヴェジンは理由は説明できないながらも、その人物には確かにはじめから好感を持っていたことを認めた。二人は四時間の旅の間ずっと向かい合って座っており、言葉を交わすことはなかったものの(ヴェジンは自らのたどたどしいフランス語を気にしていたので)、自分でも不躾に感じられるほど繰り返し相手の顔に目をやっていたそうで、そしてお互いに、たびたび礼儀正しい態度を見せたり、ささやかな気遣いをしたりして、相手に対する親切心を表していたという。二人は互いに好意を抱き、性格の相性も良さそうで、たとえ機会があって親しくなったとしても折り合いは良かっただろう。そればかりか、そのフランス人はこの平凡で小柄なイギリス人に対してまるで保護者であるかのような雰囲気を漂わせていて、言葉や素振りには出さないながらも彼の幸福を祈り、喜んで手助けをしたいと思ってくれているのがヴェジンにも伝わってきたという。
「そのご老人が荷物を渡した後にあなたに向かって投げかけた言葉ですが」そう言って、サイレンス博士はひときわ思いやりのある笑みを浮かべてみせたが、これを前にすると患者は決まって、この特殊な医師に対する偏見を忘れてしまうのだった。「正確には聞き取れなかったのですね?」
「ひどく早口で小声でしたし、語調も激しかったですから」ヴェジンは小さな声で釈明した。「ほとんど聞き取れませんでした。最後の部分だけは、その人が車窓から首を伸ばして耳元でしゃべったのではっきりと聞こえたんです」
「〈à cause du sommeil et à cause des chats〉か……」博士はまるで独り言のような口調で尋ねた。
「その通りです。『眠りと猫のせいで』といったような意味だと思うのですが」
「確かに。私もそう解釈しますね」必要以上に相手の話を中断させたくないのか、博士は短く答えた。
「残りの部分は――つまり、聞き取れなかった最初の方はみんなですが、何かをしてはならないとか――街か、あるいは街の中のどこそこに立ち寄らないようにとかいう警告のようでした。とにかくそういう印象を受けました」
 やがて言うまでもなく列車は出発し、ヴェジン氏はホームに一人ぽつんと取り残された。
 その小さな街は、駅の裏の平地から始まる丘の急斜面にへばりつくようにして続いており、てっぺんには廃墟となった聖堂の二つの塔が覗いている。駅から見ると現代風の平凡な街に見えるが、しかし実際に足を運んでみるならば、ちょうど丘のてっぺんの向こう、下からは見えないところに、中世の街並が隠れていた。
 そうしていったん丘の頂上に辿り着いて古い街並みに足を踏み入れると、彼は現代にすっぱりと別れを告げ、過ぎ去った世紀を歩いていた。混雑した列車の騒音やどたばたはもう何日も前のことのようだった。旅行者からも自動車からも遠く離れた場所で、秋の陽射しを浴びて夢見るような静かな暮らしを送っているこの丘の上の静かな街の精気のようなものが目を覚まし、彼を虜にしてしまった。彼はすっかり魅了されたまま、長い間それに気づかなかった。
 ヴェジンはそっと、ほとんど足音を忍ばせるようにして、両側に建ち並ぶ家々の破風が触れ合いそうなほどに狭くくねくねと曲がった通りを歩き、まるでその場所に押しかけてきてその夢を乱していることへの謝罪のように、申し訳なさそうな、慎ましげなたたずまいでぽつんと一軒だけ建っている宿屋の戸口をくぐった。
 しかしながら、ヴェジンいわく、彼はそうしたことすべてにほとんど気づいていなかったという。そうした細部の印象はずっと後になって思い出したものだった。その時彼の頭にあったのは、埃っぽく、がたごととやかましい列車での旅と、この静かで穏やかな雰囲気との喜ばしい対比だった。まるで撫でられた猫のようにくつろいだ心地だった。
「猫のように、ですか?」サイレンス博士は話を遮り、素早く指摘した。
「ええ。街に着いたばかりの頃にはそんな気持ちでした」そう言ってヴェジンは申し訳なさそうに笑った。「まるであの土地のぬくもりと静けさと居心地の良さにすっかり満足して、猫のようにごろごろ喉を鳴らしそうでした。あの街全体にそういう雰囲気が漂っているようでした――はじめのうちは、ですが」
 宿屋はだだっ広い、時代がかった建物で、馬車で長旅をしていた昔の日々の空気を今も漂わせていた。彼はあまり歓迎されてはいないようだった。ただ大目に見てもらっているだけだと、そんな感じがしたという。しかし宿賃は安く、居心地も良かったし、着くなりすぐに注文したおいしい午後のお茶を飲んでいると、これほど大胆な、型破りなやり方で列車を下りたことが、嬉しくて仕方がなかった。こんなことでも、彼にとっては大胆で型破りな行動だったのである。少しばかり、自分が勇敢な犬になったような気分だった。
 あてがわれた部屋は、栗色の羽目板張りの壁も、でこぼこした低い天井も、彼の気に入った。部屋に続く傾斜のついた長い廊下も、いかにも〈眠りの間〉――俗世の雑音の入ってくることのない小さく、薄暗く、居心地のいい穴蔵へと通じる天然の通路のようだった。窓からは裏庭を見渡すことができた。何もかもがたいそう好ましく、ヴェジンはなぜかしらひどく柔らかい天鵞絨に身を包んでいるような心地で、まるで床にも詰め物がされ、壁もクッション張りになっているかのような、ふんわりと包まれるような心地になった。表の通りの物音も部屋の中までは届かなかった。全き安息の気配が彼を包んでいた。
 街全体が眠っているかのような午後の中で、彼はただ一人近くにいた人物に二フランの部屋代を払った。それはふさふさの頬髭だけを長く伸ばした、慇懃ではあるが眠たげな物腰の老齢の給仕人で、石畳の中庭をのんびりと彼の方に向かって歩いてきた。
 そして、夕食前に少し街の中を散歩しようと再び下りてきた時、ヴェジンは宿の女将その人に出会った。大柄な女性で、手も足も、顔の表情も、まるで海のように広大な身体を彼の方に向かって泳いでくるようにして出てくるのだった。いわば何もないところからぬっと現れるような感じである。しかし大きな黒い瞳は生気に溢れていて、それがその巨体とは裏腹にきびきびと動く様からするに、本当は活発で抜け目のない女性であることがわかった。
 初めてその姿を見かけた時、彼女は壁際の陽だまりで、背の低い椅子に腰掛けて編み物をしていたのだが、その瞬間、彼はなぜかしら大きな虎猫――うとうとしながらも眠ってはおらず、ひどく眠そうでいながら、それでいて瞬時に行動に移る準備ができている虎猫が頭に浮かんだ。鼠捕りの得意な猫が獲物を見張っている場面を想像した。
 彼女は承知しておりますといった風に、客人に向かって礼儀正しくはあるが心のこもっていない一瞥をくれた。その首は太い割にはずいぶんとしなやかで、彼を追ってするりと動き、その上に乗っている頭が、いってらっしゃいとばかり、稲穂のように柔らかく上下した。
「でも、女将さんがこっちを見た時に、その……」ヴェジンは、茶色い瞳に例によって申し訳なさそうな笑みを浮かべてそう言い、いかにも彼らしい、弁解するような感じで肩をすくめてみせた。
「奇妙なことを考えてしまいまして。彼女は本当はぜんぜん違った動きをするつもりなんだろうなって……。ひと跳びで石畳の中庭を横切って、大きな猫が鼠に飛びかかるみたいに、私に飛びかかってくるんじゃないか、なんて」
 そう言って彼は小声で短く笑い、サイレンス博士が言葉を挟まずにメモを取る間、もうすでに、とても信じてもらえないようなことを長々と話し過ぎたのではないかと不安に思っているような口調で先を続けた。
「体格の割にずいぶんとしなやかで活発で、おまけに私がそのそばを通り過ぎて後ろに回り込んでからも、こちらが何をしているのかを把握しているような感じでした。話しかけてきたその声は、滑らかでよく通りました。荷物は届いているか、部屋の居心地はいいかと尋ねてきて、それから夕食の時間は七時で、この小さな田舎街の人々はみな夜が早いのだと付け加えました。明らかに、夜遅くうろつかないようにと釘を刺しているようでした」
 女将はどうやら、ヴェジンに声と態度とで、ここでは彼は「管理されている」ことを伝えようとしていたようだった。何もかもが彼のために用意され、お膳立てされること、彼はただそれに従っていればいいのだと。決然とした行動を取ったり、何かを精一杯がんばるようなことは求められていないのだ。列車の中にいた時と正反対だった。彼はのんびりとゆったりした気分でそっと表の通りに出た。これこそ自分におあつらえ向きの場所だと思った。流されるままでいるというのはなんと気楽なことか。彼はまた猫のように満足げに喉を鳴らし始めた。街中が一緒に喉を鳴らしているような気がした。
 ヴェジンは小さな街の通りをぶらぶら歩き、その特色であるゆったりとした雰囲気にどんどん染まっていった。これといった当てもないまま、あっちに行ったりこっちに行ったりした。九月の陽光が家々の屋根に斜めに降り注いでいた。崩れかけた破風や開いた窓の両側に並ぶ、曲がりくねった路地を下っていくと、眼下に広がる大平原が、建物の隙間に幻のようにちらちらと見えては消える。緑の牧草地も黄色の木立もぼうっと霞んで、さながら夢の地図のようだった。ここは過去という名の魔法が今も色濃く漂っているのだと、彼はそんな風に感じた。
 通りは古風な民族衣装を着た男女で溢れ、みなそれぞれに忙しそうに行き来している。しかし誰一人として彼に注意を払わなかったし、その見るからにイギリス人然とした風体をまじまじと見つめる者もいなかった。おかげでヴェジンは旅行者丸出しの自分の姿がこの美しい情景の中で一点の異物であることを忘れることすらできたし、そうしてもっともっと風景に溶け込んでいき、名前も顔も主張もない「誰か」になって伸び伸びとくつろいだ。それはまるで、夢を見ているという自覚すらない、柔らかな色彩の夢のようだった。
 丘の東側は傾斜が急になっており、眼下に広がる平原はいささか唐突な感じで迫り来る宵闇の海の中に沈んでいき、小さな木立がそこかしこに島々のように浮かび、切り開かれた田畑は深い海原のようだった。
 ここで、ヴェジンは古びた要塞の塁壁に沿ってそぞろ歩いた。かつては威容を誇っていたのであろうこの場所も、今では崩れかけた灰色の壁と伸び放題の蔦草が絡み合う様にも風情があって、ただただ幻想的なばかりだった。
 幅の広い笠石の上に座ってしばしひと休みすると、丸く刈り込まれたプラタナスの木々のこんもりとした梢が目の前にあって、見下ろせば、遙か下方の木陰の中に遊歩道が一本伸びている。そこかしこで射し込む黄色い木漏れ日が黄金色の落ち葉を照らし、街の人々が夕涼みをしながらぶらぶらと歩いているのが見えた。ゆったりした足音と話し声が、木々の隙間を抜けて微かに聞こえてくる。遠くにちらちらと見え隠れする彼らの姿はまるで影絵のようだった。
 彼はしばらくの間そこに座ったまま、波のように押し寄せてくる囁き声や、プラタナスの葉叢に遮られてくぐもったこだまに包まれながら考えごとをしていた。そうしていると、街全体も、そしてその街が老木のように自然に生えているこの小さな丘も、平原に寝そべってうたた寝をしながら寝言を呟いている生き物のように思えるのだった。
 彼がそうしてその夢の中にゆったりと溶け込んでいると、ほどなく金管楽器や弦楽器や木管楽器の音が聞こえてきて、見下ろすと、遙か下方にある混み合った広場の端で、街の楽団が低く重い太鼓の音に合わせて演奏を始めていた。
 ヴェジンは音楽に詳しく、感性も非常に豊かで、地味な音色のおとなしい曲を友人たちには内緒で作曲して、弱音ペダルを踏みながら一人でひっそりと演奏してみたこともあった。彼のいるところからは見えないが、きっと民族衣装を着た街の人たちが奏でているのだろうこの音楽は、木々の合間をふわりと浮き上がるように流れてきて、彼を魅了した。知っている曲は一つもなく、聞いた感じでは指揮者もなしでただ即興で演奏しているようだった。一曲を通じてはっきりとした一定のテンポはなく、一曲一曲はあたかも風の吹き鳴らすエオリアンハープよろしく不規則に終わり、また始まった。
 その音色はその場所と風景の一部だった。ちょうど陰りゆく陽光と微かな風の息吹がこの風景とこの瞬間の一部であるように。古風で哀感漂う金管楽器の甘美な音色、そこにときおり重なる鋭い弦の高音、そして、それらすべてが半ば埋もれてしまうほどに絶え間なく鳴り響く太鼓の低い轟き、それらが溶け合って奏でる楽の音が彼の魂に触れ、心地よいと言うにはあまりに濃密に過ぎる不思議な魔力で魅了した。
 その音楽全体に、聞く者を魔法にかけるような不思議な感覚があった。彼にはなぜかしらそれが人によって奏でられたものとは思えなかった。木々を揺らし、電線を鳴らし、大きな煙突を吹き下り、あるいは目に見えぬ帆船の帆綱を爪弾いて歌う夜風が心に浮かんできた。あるいは――こんな喩えが突然彼の頭の中に鋭く飛び込んできたのだが――動物たち、どこかこの世界の果ての地で、月に向かって啼き、歌う野生の獣たちの姿が。夜の屋根の上で猫たちの上げるもの悲しげな、人の声に似た叫び声が不気味な間隔をあけながら大きくなったり小さくなったりするのが聞こえるような気がし、すると、葉叢を通り抜けて遠くから伝わってくるこの音楽に、猫たちの奇妙な一団が、どこか空の彼方にある屋根の上で、お互いに、そして月に向かって彼らの荘厳な音楽を声を揃えて歌っている情景が重なった。
 おかしなことを考えるものだ、その時ヴェジンはそう思ったが、それでいて、それは彼の抱いていた感覚を何よりも的確に表現していた。それぞれの楽器は想像もつかないような奇妙な間をもって演奏され、強弱のつけ具合も夜の屋根の上に集う猫たちの会合にそっくりで、ぐんと大きくなったかと思うと、何の前触れもなく一気に低い唸り声になったりし、その間中ずっと、和音と不協和音とが奇妙な具合に入り混じっている。それでいてもの悲しいような甘美さが全体に漂い、こうした壊れかけた楽器たちの奏でる不協和音はたいそう独特で、音楽通の彼にとっても音程の外れたバイオリンのように耳障りには感じられなかった。
 のんびり屋のヴェジンはすっかり我を忘れて長い間その音楽に耳を傾けていたが、やがて肌寒くなってきたので、夕闇の中を宿へと引き返した。
「おかしなことはありませんでしたか?」サイレンス博士は簡潔に言葉を挟んだ。
「何にも。それどころか、何もかもとても幻想的で素敵で、想像力がずいぶんと刺激されました。たぶん」と、ヴェジンはいくぶん言い訳めいた口調で続けた。「そうやって想像力を刺激されたせいで、釣られてまた別の心象が浮かんできたんでしょうか。帰り道、あの街に漂う魔法のようなものが、いろいろな形で、とはいえどれもそれとわかる形で、じわじわと心に染み込んできたんです。しかしながら、それでもなおまったく説明のつかないようなこともありまして」
「事件、ということですか?」
「そんな大げさなものではありません。たくさんの鮮明な映像が心の中に群がってきて、でもそれがいつ見た情景なのか、元を辿っても思い出せないのです。陽が沈んだ直後のことで、崩れかけた古い建物が、黄金色と赤の淡い夕空を背景に黒く浮かび上がっている風景が、うっとりするほどきれいでした。夕闇が曲がりくねった通りを駆けるように広がっていました。丘をぐるりと囲む平原はほの暗い海のようで、潮が満ちるようにせり上がってくるんです。こうした風景に漂う魔法のような雰囲気というのは人の心を大きく揺さぶるもので、その夜もそうでした。それでも、私の感じていたものはその神秘的で驚くような風景とは直接の関係はないように思えるのですが……」
「ただ単に、美しいものを見て気持ちが微妙に変化しただけのことではなかった、と」相手が言いにくそうにしているのを見て、博士は助け船を出した。
「その通りです」相手からうまく水を向けられて、ヴェジンは笑われるのではないかと心配することなく言葉を継いだ。「漠然とした思いがどこか他のところからやって来るんです。例えば、賑やかな目抜き通りを歩いていても、仕事帰りの男女で溢れていて、出店やら屋台で買い物をしたり、何人かが集まってのんびりと噂話に興じたり何だりしています。誰も私に関心を払いませんし、誰一人、外国人やら余所者を見るような目でじっと見つめてきたりもしません。私は完全に無視されていて、私がそこにいることで特別に関心や注意を引くこともないんです。
 しかしある時、私は突然はっきりと悟ったんです。この無関心や素っ気のなさは見せかけに過ぎないことを。誰もが実際は私をじっと観察しているのだと。私の一挙手一投足は把握され、監視されている。無視しているように見えるのはうわべだけ――何もかもが手の込んだ芝居だったのだと」
 彼はそこまで言っていったん言葉を切り、私たちが笑っていはしないかと確認し、ほっとして先を続けた。
「どうして気づいたかという質問は無駄です。自分でもまったく説明がつけられないんですから。とにかく、この発見はかなりの衝撃でした。しかしながら、宿に戻る前に、また別のことが強く心に訴えかけてきまして、私はそれが本当のことであると認めざるを得ませんでした。先回りして言っておきますと、これに関してもさっきと同様に説明はできません。つまりその、私にできるのはただ事実を――私にとっての事実ということですが――語ることだけです」
 ヴェジンは椅子を立って暖炉の前の敷物の上に立った。これ以降、過去の体験に没頭していくにつれ、彼の内向さは影を潜めていった。ここまでの語りで、すでに目が少しきらきらしている。
「それでですね」穏やかな声音も、話に熱が入っていくぶん上擦っていた。「はじめにそのことに気づいたのは、とある商店にいる時だったんですが――ただ、とっさにあれだけ完全な形で出てきたということは、きっとその考え自体はかなり前から無意識のうちに抱いていたんでしょう。確か靴下を買っていたんでしたか」と、ここでひと笑いして、「店の女主人に向かって片言のフランス語で苦労しながら話していたら、ふとこんなことを思ったんです。この人は、私が何かを買おうと買うまいとどちらでもいいんだなって。買ってもらえるかどうかなど気にしていなくて、ただ物を売っている振りをしているだけなんです。これは、これからお話しすることの根拠としてはずいぶんと些細で、突飛な出来事に聞こえますが、実際はそうではないんです。つまり、それは火花のようなもので、その火が私の心の導火線を辿っていって、やがて意識をぱっと照らし出したのです。
 そこでようやく、私は街全体が、これまで思っていたものとは違うのだということを悟りました。人々の真の営みや関心は表には出ないどこか別のところにあるのだと。彼らの本当の生活は目に見える風景の裏に隠されているのだと。忙しそうな立ち振る舞いも、真の目的を隠すための見せかけの演技に過ぎないのです。誰もが何かを売ったり買ったり、食べたり飲んだり、通りを行った来たりしながら、それでいて、彼らの存在の本流はどこか私の知識の及ばない、地下の、秘密の場所を流れているのです。
 お店や屋台で私が何か買い物をするかしないかはどうでもいいのです。宿屋でも、泊まろうが出ていこうがかまいはしません。彼らの生活は私のとは離れたところにあって、隠された、謎めいた泉から湧き出て、どこか私には見えない場所をひっそりと流れているのです。すべては大がかりな、手の込んだ芝居で、それは私のためのものかもしれないですし、何か彼らなりの目的があるのかもしれません。まるで自分が人間の身体の中に入った異物で、身体全体が示し合わせてそれを排出しよう、あるいは吸収しようとしているような感じでした。街がこれとまったく同じことを私にしているんです。
 この奇妙な考えは、宿屋への帰り道、まるで頭の中に押し込まれるような感じで浮かんできて、それから私はこの街の本当の生活はどこにあるのか、そしてその隠された暮らしぶりの真の目的は何であり、そこでいったいどんなことをしているのだろうかと忙しく頭を働かせ始めました。
 それで、いくらか目の覚めた私は、他にもおかしな点に気がつくようになりました。まず一つ目は、街全体が異様なほど静かなことだったでしょうか。確かに、街全体がひっそりとしているんです。通りには小石が敷き詰められているんですが、人々はまるで足の裏に猫のような肉球がついているかのように静かに、足音を立てずに歩くんです。話し声まで静かで、猫が喉を鳴らすような低い音なんです。この丘の上の小さな街を眠りへと誘う、穏やかな夢のように眠たげな雰囲気の中では、にぎやかだったり、激しかったり、荒っぽかったりするものは、何一つ生きていけないかのようでした。あの宿屋の女将と同じです――内面の強烈な活発さと目的を、のんびりした見かけで隠しているんです。
 とはいっても、無気力で気怠そうな感じなのかというと、そういうわけでもないのです。街の人たちは活発できびきびしていました。ただ、誰もが魔法にかけられたかのように、謎めいた、気味の悪い穏やかさに包まれているのです」
 ヴェジンはあたかも記憶があまりにも鮮明になりすぎたかのように、一方の手で目の前を払った。その声は低く囁くような調子になっていて、最後の方は聞き取りづらかった。彼が本当のことを話しているのは間違いなかったが、しかし彼はそれを話すことを好み、そして同時に嫌ってもいた。
「宿に戻った私は――」ほどなく、彼はさっきよりも大きな声で話を続けた。「夕食をとりました。私のまわりには新たな、それまでとは違う世界がありました。古い現実が遠のいて、その代わりここにあるのは、私が気に入るかどうかにかかわらず、新たな、不可思議な何かなのです。私はとっさの衝動に駆られて列車を下りてしまったことを後悔しました。冒険心というやつに駆られてしまったわけですが、柄にもないことをするとろくな目には遭いません。そればかりか、これはどこか私の心の奥深く、自分では潜って調べることのできない領域に眠る冒険心の始まりでした。そしてまた、この自分にそんなものがあったのだという驚き混じりの不安――四十年間自分で自分の人格だと思ってきたものが揺らいでいく不安もありました。
 私は自室に戻ってベッドに入りました。頭の中は普段なら考えないような、いくぶん気味の悪い想念でいっぱいでした。心を落ち着けようと、あの素敵で、平凡で、騒々しい列車と、そこに溢れる健全でやかましい乗客たちのことばかり考えていました。またあの連中と一緒にいられたらと願いすらしました。それなのに、夢に見たのは猫たちと、ゆったりと動くものたちと、感覚の向こうにある、ほの暗く、音のしない世界での静かな生活のことでした……」