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日曜日の過ごしかた

 夏の間の日曜日には、私はいつも窓を大きく開け放ち、閉じたカーテンの内側から、部屋の窓の向かいに建つ教会の尖塔を朝陽がしずしずと伝い下りていく光景を眺める。まず初めに、風見鶏がきらきらと輝き始める。次に、淡い光を浴びた塔の三角屋根が空に浮かび上がる。やがて光は塔本体に達し、金めっきを施された時計の文字盤の針が黄金色に閃く。上から順に一つずつ、窓ガラスが光を反射する。正面アーチに施された彫刻がくっきりと浮かび上がる。
 天から下りてきた絢爛たる朝の光明は正面の石段を一段ずつ照らしていき、やがて隣り合う家々を今なお包み込んでいる薄闇の中、朝の瑞々しい光を全身に浴びて、尖塔がついにその姿を現す。晴れた日の朝はいつも同じ太陽の光に照らされているにもかかわらず、日曜日の尖塔はいつもとは違う光の衣をまとっているように見える。
 教会の近くに住んでいると、ほどなく教会の建物自体に愛着を抱くようになる。いつの間にかそれを人間に見立て、その重厚な壁の中、薄暗くがらんとした堂内には、穏やかで、思索的で、そしてどこか寂しそうな心が宿っているのだと思えてくる。そうして教会のことを思う時、やはり真っ先に心に浮かぶのは尖塔である。それは広く細やかな心を持ち、街の人々の心配事を、大きなものから小さなものまで残らず案じてくれる巨人のような印象がある。一時間ごとに鳴らすその鐘で、彼はひと握りの思慮深い人たちに規律正しさを説きつつ、せわしなく生きる数千の人々に、それぞれの胸の一番奥にある出来事を思い出させてくれる。また、さまざまなリズムの鐘の音を発して、すみやかに何かを告げ知らせるのも彼の役目である。吉事や祝祭を、彼ほど晴れやかに歌い上げる者はない。死者がそろりそろりと終の住み家へと帰っていく際には、尖塔はもの悲しげな弔鐘の音で彼らを迎え入れてもくれる。
 しかし、このように人々の暮らしに密着していながら、平日のその高く、堂々たるたたずまいには、なんともの寂しげな雰囲気が漂っていることか。眼下に広がる家々の中に仲間はいない。足下を見下ろすなら、狭い目抜き通りの、人混みを肘で掻き分けて進まなければならないほどの賑わいが、寂しさをさらに際立たせている。教会の建物に目をやれば、その印象はますます強くなる。壁の上の方に穿たれた窓から差し込む陽射しに、そこかしこに影の映り込む堂内は、会衆席にも側廊にも人気はなく、オルガンは沈黙し、説教壇に立つ者はなく、時計がひっそりと時を刻んでいる。人のいない時の流れ、それこそはまさしく永遠である。おそらく教会の中には平日の間ずっと、永遠にまつわるありとあらゆる思索や感情が蓄えられていて、やがて聖なる日曜日が巡ってくると、それが解き放たれるのだろう。それならば、教会は街外れに建てる方がふさわしいのではないだろうか。広々とした敷地の中、風に揺られて静かな緑の地面に厳かな影を落とす古い木々に囲まれて……。これについてはまた後で触れよう。
 とにかく、私は日曜日に夜明けの光を眺めながら、普段よりも清らかなこの光こそが、取引所の喧噪も商店の人通りも絶え、人出も活気も教会だけに集中するこの特別な一日の証なのだと思う。これまでも多くの人がそう思ってきたように。私の場合、その光が木枝の絡み合う森の中で木洩れ日となっていようと、あるいは一面の草原に燦々と降り注いでいようと、煉瓦造りの建物の間に押し込められていようと、はたまた私の部屋の床の上に窓の形に区切られて映っていようとも、ちゃんと安息日の光だとわかる。これからもずっとそうでありますように! 幻とは時に(これもその一つだが)より大きな真実の影なのだから。疑念が私のまわりをひらひらと舞い飛び、その黒い翼を折りたたんで私の心に舞い降りるようなことがあっても、安息日には天から聖なる光が降り注ぎ、この地上を清めてくれるという、その思いがある限り――あの祝福された陽光が私の中で生き続けている限りは、私の魂は決して信仰を忘れることはない。たとえ迷うことがあったとしても、それは必ず戻ってくる。
 このように心爽やかな安息日を、私は朝から晩まで、開いた窓のカーテンの陰から外を眺めて過ごすのが好きだ。もったいない過ごしかただろうか。いやしかし、今日では、時計の針のように地面をぐるりと一周する尖塔の影が届く範囲は、聖なる土地とみなされるべきなのだ。それに、敬虔なる心は盗人の隠れ家すら清めてしまうと信じられているし、一方で、邪な心が寺院を汚して盗人の巣窟に変えてしまうこともある。要は信ずる心こそが大切なのだ。まあ、私の心はそこまで神聖ではないだろうし、それほど悪しき影響力があるとも思いたくはないが。姿形こそそこにはなくとも、私は心の中で欠かさず教会に通っていると、そういうことにしておこうではないか。
 一方で、会衆席のいつも同じ場所に陣取っていながら、心を家に忘れてきている者も大勢いる。しかし私は、お馴染みの教会の世話人よりも早く来ている。ほら、噂をすれば、である――親切そうだが陰気な顔つきの、暗い灰色の服と、同じ色合いの髪の男がやって来る。彼は幅の広い正面扉に鍵を差し込む。
 さあ行こう! 私は想像の中で埃をかぶった信者席を通り抜け、神様を冒涜することなく説教壇に上がり、それからすぐに引き返して、鐘の音を楽しむためにまた表に出る。ああ、なんと歓喜に満ち、それでいて荘厳な音だろう! 街中の尖塔という尖塔が、その先端を天に向けたまま、晴天の空高く語らい合っているかのようだ。
 そうしているうちに、教会内のどこかで開かれている日曜学校の生徒たちが集まってくる。正面扉のアーチを眺めていると、子供たちがわらわらと外の陽射しの中に出てくることがよくあるのだが、桃色、青、黄色、紅色と、色とりどりの服を着た小さな女の子や男の子たちの姿は、まるで厳かな暗がりの中に閉じ込められていた色鮮やかな蝶々のようで、見ている私の心もふわりと軽くなる。あの子たちは神聖な教会のまわりを漂う天使たちなのだろうか。
 正午の鐘が鳴る十五分ほど前になると、信者たちの姿がちらほら見え始める。一番乗りはいつも決まって黒い服を着たおばあさんで、何か重い病気を患っているらしく、曲がった腰やすぼめた肩を祭壇に委ねたくて仕方ないのだろう。この哀れなおばあさんのために、安息日が一週間に二度やって来ればいいのに。もう一人、早々とやって来るおじいさんもいて、こちらは尖塔の落とす影の線のちょうど内側に立って、塔の角に寄りかかって暗い顔でうつむいている。この二人のうちでは、病持ちのおばあさんの方が幸せなのではないだろうかと、私は時々思うことがある。この二人の後に、他の信者たちが一人ずつ、あるいは二人連れ三人連れでやって来て、正面アーチをくぐって中に入っていく者もあれば、扉の近くに立って待っている者もある。
 ようやく、いつも決まってひどく唐突な感じで、頭上の尖塔に吊された鐘が傾いて、ごーん、ごぉぉーんと、不規則なリズムの、塔を土台ごと揺るがすような音が鳴り響く。するとその音に魔法が込められているかのごとく、歩道は瞬く間に右も左も二列に並んだ人々で溢れ、誰もがこちらに向かって集まってきて、教会の中に流れ込んでいく。遠くから馬車のがらがらという音が近づいてきて――しんと静まり返った通りに、それはひときわけたたましく鳴り響く――、貧しい人々の中に混じって、裕福な信者たちが車から下りてくる。しかし、あの教会の入り口の向こうでは(少なくとも建前上は)、世俗的な貴賎の区別はないのだ。なるほど確かに、陽射しの中で艶めいている上等な衣服も、暗い堂内では他と見分けはつかないだろう。
 ああ、きれいな娘たち! なぜあの娘たちは私の敬虔な思いを乱そうとするのだろう。一週間の七日のうち、もっともお洒落を慎むべきこの安息日に、あたかも麗しき天使たちの向こうを張ってわれわれの思いを天から逸らそうとするかのように、かりそめの美を競っている。もし私が牧師だったら、ついついそちらに目が行ってしまうだろう。腰から上は白のモスリン、腰から下は靴まで黒絹という装いの娘がいる。かと思えば、頭のてっぺんから爪先まで全身緋色ずくめの娘もいる。さらにまた、まるで陽光を紡いだかのごとく、輝かんばかりに鮮やかな黄色いドレスの娘も。
 しかしながら、大半の娘たちはもっと地味な色合いの衣装を着ている。彼女たちの顔にかかるベールが、とりわけ風にふわりとめくれる時などに、その全体的な雰囲気に軽やかさを添えて、正面の石段をするすると上って仄暗い入り口の向こうに消えていくその姿を幻のように見せている。彼女たちのほぼ全員が(男の私がこんなことを知っているのもずいぶんとおかしなことではあるが)、雪のように真っ白なタイツを履いて、きれいなくるぶしのずっと上の方まで届く編み上げ靴を履いている。白いタイツの方が、黒いものよりもずっと対比がきれいに見えるのだ。
 ここで牧師のお出ましである。そのしずしずと厳かな所作と、飾り気のない簡素な身なりを見れば、黒の僧服を着ていなくともそうとわかる。その顔は私の敬意を射止めはするが、情愛まで勝ち取ることはできない。もし仮に、天国の門をぴったりと閉ざし、哀れみよりも厳しさの勝る顔で、門を叩く哀れな者たちを睨み据える聖ペテロを描くとしたら、私はその顔を手本にするだろう。人はたいてい中年になる頃には、あるいはもっと早く、宗教の教義が心に刻み込まれた融通の利かない人間になるか、あるいは教義が心と調和した寛大な人間になるかのどちらかなのだ。
 牧師が堂内に入ると、教会の鐘はその鉄の口を閉ざし、会衆の低いざわめき声もぴたりと静まる。あの灰色の世話人が通りの左右を見渡し、それから私のいる窓のカーテンを見やる。布地に開けられた小さな覗き穴越しに目が合ったような気がする。
 今、こうして会衆がみな教会に入り、穏やかな陽射しの中、通りが眠ったように静かになると、私はふと心に寂しさを覚え、自分は礼拝という特権を、義務を放棄してしまったのだという落ち着かない気分になる。ああ、私も行けばよかった! 椅子を引きずるがらがらと騒がしい物音が聞こえてくる。祈祷のために起立しているところだ。教会の中で今祈りを捧げている者たちと心を一つにして、これといった明確な願いごとではなく、ただ真心からの想いを天に届けることができたなら、それが一番無難な類いの祈りではなかろうか。「天が私を慈悲深く見守っていてくださいますように!」と。そんな具合に、ただほとばしる思いだけを胸に抱いて、他の一切を神に委ねることができたらいいのに。
 ほら! 賛美歌だ! ミサの中で少なくともこれだけは、堂内に座っているよりもここにいる方が楽しむことができる。あの中にいると、朗々たる合唱とオルガンの荘厳たる旋律がずっしりとのしかかってくるから。しかし外で聞くその音色はこの身体にぞくぞくと染み渡り、心の琴線を爪弾いて、感覚と魂の両方を楽しませてくれる。天を称えよ! 音楽に疎い私の耳には専門的に詳しいことはわからないので、ひときわ緻密なハーモニーも子守歌のように単純に心地いい。曲が終わってもその旋律は私の心の中で幻の残響となってこだまし、やがてはっと我に返った私は、牧師の説教が始まっていることに気づく。
 残念なことに、私は活字になったものでないと、めったに訓話というものにありがたみを感じることはない。牧師が最初に口にした印象の強い言葉が連想を引き起こし、彼が雷さながらの轟くような大声の持ち主でない限り、頭に浮かんだ思いを追っているうちに、私の心は一歩また一歩と脇道に逸れていき、その声の届かないところへふらふら導かれてしまうのだ。今こうして自宅の窓辺に立っていても、ふと「冬の牧師の長説教※1」という一節が耳に入ってくるならば、もう説教壇の目の前に立っているのと変わらない。この訓話の切れ切れの断片を題材にして、同輩であり、しばしば論敵同士でもある二人の牧師、すなわち私の頭と私の心が、そこからたくさんの説話を生み出していく。前者は小難しい教条主義の話で私を困惑させる。後者は情に訴えてくる。そして両者ともに、そういう牧師は他にもいるけれども、その努力は空回りしている。その説教のただ一人の聞き手である私は、それを理解したりしなかったりなのだから。
 数時間後、午後のミサの終わる間際になっても、私はまだ自宅のカーテンの陰にいる。教会の塔の文字盤の針は四時を回っている。夕陽が尖塔の陰に隠れ、通りにはその真っ直ぐな影が落ちている。私の部屋も、雲に陽を遮られたように暗くなる。教会の入り口のまわりはしんと静まり返り、戸口の暗がりの先は見通すことはできない。
 やがてがやがやと騒々しい音がする。座席が勢いよく押し倒され、信者席の仕切り戸が開け放たれる。見えない通路を歩く無数の足音に続いて、突然、正面入り口から信者たちがどっと溢れ出す。先頭ではしゃいでいるのは男の子たちの集団で、その後ろに黒っぽい服を着た大人の男たちの密集陣形が続く。最後に出てくるのは幼い子供を連れたご婦人方で、そこにちらほらとその亭主たちが混じっている。もの寂しい風景が一瞬にして活気に溢れるこの場面こそは、日曜日のとっておきの心楽しいひとときである。
 善良な人々の中には、敬虔さゆえにいわば神聖な恍惚感のようなものに包まれていると言わんばかりに、これ見よがしに目を擦っている者もいる。安っぽい伊達男が一人いる。この男は毎回毎回決まっていの一番に真っ白なハンカチをひらりと取り出し、ワニスでも塗っているのかと思うほどに艶々の、黒い絹のズボンの尻をさっと拭くのだ。あのズボンはきっと〈とこしえ織り〉とか何とかいう生地でできているのか、あるいはひょっとすると、『天路歴程』※2の主人公クリスチャンの着ている衣服と同じ素材でできているに違いない。二年前の夏もその同じズボンを履いていたのに、いまだに艶が消えないのだ。私はあの黒い絹のズボンにすっかり愛着が沸いてしまった。
 やがて、知り合い同士で会釈や挨拶を交わしながら、既婚女性たちはそれぞれに亭主の腕を取ってしずしずと帰路につき、若い娘たちはめいめいに意中の独身の男と夕べの散策の約束を取り付けてひらひらと飛び去っていく。安息日の夕べは恋の夕べである。
 とうとう、信者たちはみな帰ってしまった。いや、まだだ。ほら、二人の色黒の女と一人の浅黒い男が出てくる。そのすぐ後から出てきた牧師も、今は先刻までの厳格な顔を和ませ、三人に一人ずつ優しい言葉をかけている。かわいそうな人たち! あの三人にとって、天の恵みを一番感じられる聖書の場面は、「光あれ!」ではなく「白くあれ!」だろう。
 あたりは再び静まり返った。おや、静かに! さえずるような声が切れ切れに聞こえてくる。続いて、その荘厳たる旋律と甘美な歌声に寄り添うような、オルガンの重厚な響き。歌っているのは誰だろうか。この聖なる朝に天から舞い降りてきて、真に善良な者たちの信ずる心に溶け込んでいた天使たちが、下界に別れを告げる歌を歌い奏でているのだと想像してみる。その豊かな旋律を翼に代えて、彼らは天に昇っていくのだ。
 おっと、いけない。寛大なる読者諸君よ、お許しいただきたい。ほとばしる詩心についつい筆が滑ってしまった。実際のところは、男女の歌い手が数人、後に残って気の向くままに歌い、オルガンをさらりと弾いているのだ。それでも、その歌声はさっきの賛美歌よりもさらに高く、私の心を浮き立たせる。やがて彼ら――音楽の申し子たち――も帰っていき、今はちょうど、あの灰色の世話人が正面扉を閉めているところだ。これから六日間、会衆席にも通路にも人の顔はなく、説教壇にも人声はなく、聖歌隊席に歌声が響くこともない。それならば、一週間に一日だけ人で賑わって、残りの六日はもぬけの殻となるこの巨大な建造物を、わざわざ街の真ん中に建てる意味はあるのだろうか。
 そう、あるのだ。それでもやはり、教会とは神の御教えの象徴なのだから。最初の木が切り倒されたその日に清められたその敷地が、永遠に聖なる場所であり、心の悩みと虚栄の溢れる平日の俗世における、安息と孤高の地であり続けますように! 外壁に囲われたあの沈黙の中には、道徳が、そして信仰が宿っているのだ。そして、教会の尖塔がいつまでも真っ直ぐに天を指し続け、安息日の朝の聖なる陽射しに彩られますように!

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