top of page

 くる晩もくる晩も、若き漁夫は舟を出して、海に網を投げ込みました。
 風が陸から吹く時は獲物はなく、あってもわずかな魚しか捕れません。それは冷たく、黒い翼を持つ風で、負けじと波も荒れるからです。しかし海風が吹く日には、魚たちは深い海の底から上がってきて網にかかり、漁夫はそれを市場に出して売りました。
 くる晩もくる晩も、漁夫は海に舟を出し、そしてそんなある晩のことでした。網が重くて重くて水から引き上げられないのです。漁夫は笑って独り言を言いました。
「きっと、海を泳いでいる魚たちがみんな網に入ったんだ。それとも、のろまな、珍しい海の怪物が引っかかったのかな。いやそれとも、女王さまがお望みになるような恐ろしい魔物かもしれないぞ」
 漁夫がざらざらした網をありったけの力で引っ張ると、七宝の壺の表面を走る青いエナメルの筋のように、腕に長い血管が浮き上がりました。細い綱を手繰り寄せていくと、平たい浮きを連ねた網の口がだんだん近づいてきて、やがてとうとう、網が海面に浮かびました。
 しかし、その中にいたのは魚でもなければ、怪物でも恐ろしい魔物でもありません。なんと小さな人魚が一人、ぐっすりと眠っているではありませんか。
 その髪は塗れた金色の羊毛のようで、その一本一本が、ガラスに浮かぶ繊細な金の筋のようでした。身体は象牙のように白く、尾ひれは銀と真珠色です。銀と真珠色のその尾ひれに、緑の海草がからまっています。貝殻のような耳に、珊瑚色の唇。冷たい波がそのひんやりとした胸元に打ち寄せ、瞼は塩の粒できらきら光っていました。
 そのあまりの美しさに驚きで胸がいっぱいになった漁夫は、手を伸ばして網を引き寄せると、舟べりから身体を乗り出して人魚を抱き上げました。漁夫の手が触れると、人魚はびっくりしたカモメのような悲鳴を上げて目を覚まし、淡い紫水晶の色の瞳でこわごわと彼を見つめ、身をもがいて逃げようとしました。しかし漁夫は人魚をしっかりと抱きしめて離しません。
 人魚は逃れられないと観念すると、涙ながらに訴えました。
「どうか海に帰してください。私は〈海の王〉のたった一人の娘で、お父さまは年老いて独りぼっちなのです」
 若き漁夫は答えました。「きみが約束してくれたら離してあげよう。ぼくが呼んだら、きっと海から上がってきて歌を歌うって。魚たちは〈海の民〉の歌を聴くのが好きだから、そうしてくれれば魚が網一杯捕れるんだ」
「約束したら、本当に本当に、離してくれますか」
「本当に本当に、離してあげる」若き漁夫は答えました。
 そうして人魚は漁夫の望んだとおりの約束をし、それを守ることを〈海の民〉に賭けて誓いました。漁夫が腕の力を緩めると、人魚は奇妙な不安に打ち震えながら、海に潜っていきました。
 くる晩もくる晩も、若き漁夫は海に出て人魚を呼びました。すると人魚は水から上がって歌を歌いました。ぐるりぐるりと、彼女のまわりをイルカたちが泳ぎ、カモメたちは彼女の頭の上を円を描いて飛びました。
 人魚の歌は、それはそれは不思議なものでした。子供の人魚を肩に乗せ、魚を追って海の洞穴から洞穴へとさすらう〈海の民〉の歌に、緑色の長い髭と濃い胸毛を生やし、〈海の王〉のお成りの際にはねじれた巻き貝を吹き鳴らす、海の守り神トリトーンたちの歌。あらゆるものが琥珀でできていて、屋根は透き通ったエメラルド葺き、床には輝く真珠を敷き詰めた〈海の王〉の宮殿の歌。枝に金銀細工のほどこされた珊瑚の扇が一日中ゆらゆらと揺れ、魚たちが銀の鳥さながらに泳ぎ回り、岩にはイソギンチャクがはりつき、畝の連なる黄色い砂の地面には桃色の芽が顔を出している、海の底の庭園の歌。
 それだけではありません。北の海からやってきて、ひれから鋭い氷柱をぶら下げている、巨大なクジラたちの歌。船上の商人たちが、海に飛び込んで溺れてしまわないようにと耳を蝋でふさがなければならないほどに奇っ怪な物語を語るという、海の妖怪セイレーンの歌。帆柱を高く伸ばし、帆綱には凍りついた船乗りたちをからませ、開いた船窓をサバたちが行き来する、沈没したガレー船の歌。船底にはりついて世界中を巡る小さな旅人、フジツボの歌。水中の崖の斜面に住みついて長く黒い触手を伸ばし、意のままに夜を手繰り寄せることもできるというイカたちの歌。オパールから削り出した一人乗りの舟に乗り、絹の帆を張って航海するオウムガイの歌。ハープの音色で巨大な海の獣、クラーケンを眠らせてしまうという、陽気な男の人魚たちの歌。つるりとしたネズミイルカに捕まって、その背に乗ってはしゃぐ子供の人魚たちの歌。波頭の白い泡の上に寝そべって、差し伸ばした腕で船乗りたちを誘う女の人魚たちの歌。三日月の形の牙を持つアシカの歌。たてがみを水中に漂わせるタツノオトシゴの歌。
 人魚の歌を聴きに、マグロたちは一匹残らず水面に浮かんできます。若き漁夫は網を投げたり、銛で突いたりしてそれを獲るのでした。舟が魚で一杯になると、人魚は漁夫に微笑みかけ、海に帰っていきました。
 しかし、人魚は捕まってしまうことを恐れて、決して漁夫のそばに近づこうとはしませんでした。漁夫はたびたび声をかけ、近くに来ておくれと頼みましたが、人魚はいやいやをします。漁夫が捕まえようとすると、人魚はアザラシのようにのそのそと岩場を這って海に潜ってしまい、その日はもう姿を見せませんでした。
 やがて日を追うにつれて、人魚の歌声は漁夫の耳を甘くとろかすようになっていきました。その声のあまりの甘美さに、彼は網を投げるのも、銛を突くことも忘れ、もう魚を獲る気も起きません。マグロの群れが、朱色のひれをひらひらさせ、金色の目玉をぎょろぎょろさせながら通りすぎても、見向きもしません。銛は使われぬまま手元に転がり、柳を編んだ魚籠は空っぽです。口をぽかんと開け、感嘆にうっとりとした目で、漁夫は舟の中にぼんやりと座ったまま人魚の歌にいつまでもいつまでも聴き入っていました。やがてあたりは霧に包まれ、夜空を移ろう月が、彼の日焼けした手足を銀色に染めていきます。
 そんなある晩のこと、漁夫は人魚の姫君を呼んで言いました。
「人魚の姫さま、人魚の姫さま。ぼくはきみが好きだ。ぼくを夫として迎えておくれ。ぼくはきみが好きなんだ」
 しかし人魚は首を振って、こう答えました。「でも、あなたには人間の魂がありますもの。魂を追い出してくれさえすれば、わたしもあなたのことを好きになれるのに」
 若き漁夫は自問しました。「魂なんて何の役に立つだろう? 目に見えるでもなし、手で触れられるでもなし、どんなものかもわからない。いいとも、そんなもの追い出してしまおう。そうすれば、ぼくはとても幸せになれるんだもの」
 漁夫はいきなり喜びの声を上げると、鮮やかな色に塗られた舟の中で立ち上がり、人魚に向かって両腕を広げました。
「ぼくは魂を追い出そう。きみはぼくの花嫁に、ぼくはきみの夫になって、二人で一緒に海の底に住もう。きみが歌に歌ったあれこれを、みんなぼくに見せておくれ。ぼくは君が望むことをみんなかなえてあげる。二人でずっとずっと一緒にいよう」
 すると人魚は嬉しそうに笑って、両手で顔を隠しました。
「でも、どうすれば魂を追い出せるんだろう?」若き漁夫は心に浮かんだ疑問を口に出しました。「教えておくれ。すぐにそのとおりにするから」
「あら! わたしも知らないのです」人魚は答えます。「私たち〈海の民〉は魂を持っていないのです……」
 そう言って、人魚は切なそうに漁夫を見つめながら海に潜っていきました。
 あくる日の早朝、丘の上に出た太陽が広げた手のひらの大きさにもならぬうちに、若き漁夫は神父の家を訪ねて扉を三度叩きました。
 見習い修道士が覗き窓から顔を出し、相手が誰だかわかると、かんぬきを外して言いました。「入りなさい」
 そうして若き漁夫は中に入り、甘い香りのするイグサの敷物の上にひざまずいて、聖書を読んでいた神父に向かって問いかけました。
「神父さま、ぼくは〈海の民〉に恋をしてしまったのですが、ぼくの魂が邪魔なのです。教えてください。どうすればぼくの中から魂を追い出すことができるのでしょうか。だって本当に、ぼくは魂なんか必要ないのです。ぼくにとって、魂なんかにどんな価値があるというのでしょう? 目に見えるでもなし、手で触れられるでもなし、どんなものかもわからないのに」
 すると神父は呆れ果て、怒りのあまり自分の胸をどんどんと叩いて答えました。
「おやおや。おまえは気でも狂ったのか。それとも毒草でも食べたのか。魂こそは人の中で一番尊い部分で、神さまが大切に使うようにとお与えくださったものではないか。魂ほど価値のあるものはないし、この世のどんなものとも秤にかけることはできん。それはこの世のすべての金貨よりも値打ちがあって、王さまの持っておるルビーよりも貴重なものなのだぞ。よいか、もうこれ以上そのことを考えるのはやめなさい。それは許されぬ罪なのだ。それからその〈海の民〉だが、あれは堕落した者たちだぞ。あの連中とつきあいのある者たちもしかり。あれは善と悪の区別もつかぬ野の獣と変わらんし、あの者たちの罪はまだ主によって贖れておらぬ」
 神父の厳しい言葉を、若き漁夫は泣きながら聞いていましたが、やがて立ち上がって言いました。
「でも神父さま、半身半獣のファウヌスたちは森で幸せそうに暮らしていますし、海辺の岩には男の人魚たちが座って、赤みを帯びた金の竪琴を弾いています。ぼくもあんな風になりたいのです。あんな花のような日々を送りたいのです。それに魂なんて、ちっともぼくのためになんかなりません。ぼくとぼくの恋しい人の邪魔をするばかりです」
「肉体への愛は卑しいものだぞ」神父は眉をひそめ、諭しました。「そして卑しく悪しきは、神さまの創りたもうたこの世界をさまようておる異形の者どもだ。呪わしきかな、森のファウヌスどもよ! 呪わしきかな、海の歌い手たちよ! これまでも夜にあの連中の歌声を聞いたことがあるが、あやつらめ、このわしを誘惑して神の道から足を踏み外させようとしおった。ここの窓を叩いて、自分たちの邪な悦びの話をわしの耳に囁きかけて笑っておった。わしを誘惑して、わしが神に祈ると嫌な顔をしおる。あの連中は堕落しておる。よいか、堕落しておるのだ。あの連中には天国も地獄もなく、そのどちらにおっても神の名を称えることはせぬ」
「神父さま」若き漁夫は言い返します。「そんなことはありません。このあいだ、〈海の王〉の姫君が網にかかったのです。その女は明けの明星よりもきれいで、お月さまよりも白かった。あの女の身体のためならぼくは魂を捨ててもいい。あの女に愛してもらえるなら、天国を諦めたっていい。どうかぼくの質問に答えてください。そうすればおとなしく帰りますから」
「去ね! この不届き者め!」神父は怒鳴りました。「そなたの想い人は堕落しておる。そなたもその女とともに堕ちるがよい」
 そう言って、神父は漁夫に祝福も与えず、戸口から追い出してしまいました。
 若き漁夫は次に市場に向かいました。うつむいてとぼとぼ歩くその姿は、さながら悲しみに打ちひしがれた人のようです。
 漁夫がやってくるのを見た商人たちは互いにひそひそと言葉を交わし、やがて一人が前に出て彼を呼び寄せ、言いました。「何か売ってくれるのかい?」
「ぼくの魂を売ろう」漁夫は答えます。「どうか買い取っておくれ。もううんざりなんだ。魂なんて、いったい何の役に立つっていうんだい? 目に見えるでもなし、手で触れられるでもなし、どんなものかもわからないのに」
 しかし、商人たちは馬鹿にしたように笑って言いました。「人の魂なんて、おれたちに何の役に立つっていうんだ? そんなもの、欠けた銀貨の値打ちもないさ。おまえの身体を奴隷として売っておくれよ。そうしたら海みたいな深い紫色の服を着せて、指輪をはめて、女王さまの召使いにしてやるよ。でも、魂はいらないね。そんなもの、おれたちにとっちゃがらくた同然だし、売り物にだってなりゃしない」
 若き漁夫は独り呟きました。「なんて不思議なものなんだろう、魂って。神父さまに世界中の金貨にも等しい価値があると言われたり、かと思えば、商人たちには欠けた銀貨にも劣ると言われたり」
 そうして彼は市場を後にし、海辺に行ってじっくり考えを巡らせました。
 やがて昼になると、漁夫は仲間の一人で、海辺に生える食べられる草を集めている男から、入り江の先端にある洞穴(ほらあな)に住んでいて、魔術にたいそう秀でたとある若い魔女の話を聞いたことを思い出しました。そこで彼はそちらに向けて出発し、魂をやっかい払いしたくて気が急くあまりに、もうもうと砂煙を上げて浜辺を駆けていきました。

bottom of page